先のブログを機に生命について思いを巡らせていたら何だか悲しい気持ちになってしまった…
人間は他の捕食者に食べられるという経験をする事は少ないと思うけれど、自然界ではそれがごく当たり前に行われている。
そこで生き物の中には子孫を残すための手段として、とにかく多い数を卵で産むものがいる。
だけど卵から孵った個体のそれぞれに命が宿り「生きたい」という意志を持ち懸命に生きているにも拘わらず他の生物によってそれを奪われる様は何とむごいのだろう、生態系の頂点に居ないばっかりに…僕は人間だけど小柄だから、図体の大きい横柄な奴には、どんなにこちらが正しくとも力では勝てない事が多々ある。だから少しはその気持ちが解る気がする。
話が横道に逸れたが、数的なものといえば人間にもそんな究極の選択を迫られる状況が残念ながら存在する。人質を取られた場合などがそうだ。
仮に数十人の人質と引き換えに国家の危機が回避されるとしたら、その国の指導者はどちらを選択するだろうか。人質の一人一人が誰かにとっての大切な人であり、況してその中に自分の家族がいるような状況で…
「延命」という行為に僕は疑問を感じえないが、それでもやはり自分にとって大切な人と、命ある限り少しでも長く一緒にいたいという気持ちと、出来るなら当人の意思もしっかりと尊重されて然るべきだと思う。
下半身を失っても義足や車イス、果ては腕の力だけで移動する事のできる人間は凄いと同時に恵まれているとも思う。
道端で、とりわけ自然を逸したスピードで迫り来るものによって体の一部を奪われた生物の様の何とむごい事か。脳がやられなかった事で命は取り留めたものの身体の自由が利かない。おまけに体液によってアスファルトの路面に貼り付いてしまっているから行きたい(その多くは食べ物のある場所)へ行く事もできない。仮に行けたとして、人間の様に半身だけで食事を摂ることが出来る(摂取と消化?)のか分からない。
自然界では、何も人工的なものに限らず常に変化が生じ、それに適応・順応する力が求められている。そのサイクルに人類が加わった事で目まぐるしくなっただけ。
人間界で言えば物価や平均寿命は変化したが、年相応の老化現象にはさほど大きな違いはない。
調べたところ人の平均寿命が40代から6、70代まで飛躍的に延びたのは戦後になってからだというから驚きだが、それでも江戸〜昭和初期にかけての40代が現代でいう所の80歳に相当する、という訳ではないと思うから、我々は当時の人々からは想像もつかなかった老化現象を目の当たりにしているのだ。
いま再び大きな変革・過渡期にある現代に於いて、これまでの「普通」の定義が見直されつつある。(中には人として疑問を感じえないものもあるが…)
それでは一体この先ヒトが 150~200 歳まで寿命を延ばすような事はあるのだろうか?個人的には世界が円滑である為にも、既得権益や因習に囚われるような年齢になってまで人は生きるべきではないと思っている。(世界のあらゆる反民主的な独裁政権の有様を見ても)
Σigma
PS
ただ時が過ぎ行くのを感じるのは辛いーせめて恋愛でその実感を一瞬でも忘れたり、或いは楽しみな事を心待ちにしながら時間を過ごせたなら…