先日の記事に関して『藝術論』大層な表題を付したが、僕はここで『芸術』について語る積もりはない。人は「円熟すると行動に無駄がなくなる」とよく言われる。僕はそんな『本質』をずっと追求してきた…ameblo.jpこの中で僕は「多少の不都合は受け入れるくらいの…」という言葉を用いた。昨晩、テレビでギリシア正教の信者が「人にはみな役割があって…云々」みたいな話をしていて、それも一理あるなと思った。不可知論者の僕が言うのもおかしいが、先天的・遺伝的に超せない世界がある(「この世の全ては予め決められていた」とは考えたくない)のならば、個々人にとって「ちょうど良い場所」があって、自分に合わないものを無理に受け入れる(例えそれが自身の憧れていた物事であったとしても)必要はないのかもしれない。Σigma