突然だけど、読書は静的な夢?
ロマンチックな文学の好きな僕にとって、読書は確かに夢の世界ではあるけれど静的なものではない。
何故なら当時の僕は あらゆる書物に触れたくて、朝から晩まで、一分一秒も無駄にはしたくなくて活動していたから。
でも今は違う。
彼女の姿を求めて、文字通り「夢」という眠りを貪っている。
だけど僕はこう考えているんだ。
上で言う「当時」とは失恋直後の事を指すのだけれど、
ちょうどその頃シェリーの『アドネイアス』をきっかけに英詩に目覚め、次いでゲーテの『若きウェルテルの悩み』を機に本格的に文学に耽溺していった僕は、自分で言うのも何だが創作意欲にも溢れていた。
でも今は、それら束の間の活力が、よく一睡もしないでいると翌日妙にテンションの高い、そんな仮象のヴァイタリティーだったのではないかと考えている。
そして今の僕にとって何より大事なのは、「現実」に於ける彼女の存在。
だけどその彼女が、現実に心の交流を果たせる距離に居ないから仕方なく彼女の姿を夢に求め眠りを貪っている訳で…
でも失恋直後とは違い、現実での絶縁が決定的になったという自覚は薄らいでいるから
何か他の非現実的なもの、文学といった、ではなく、あくまで彼女本位という姿勢は変わらなくて。
要は一見「静的」に見える現在の状態も、偽りの活動性よりは良いんじゃないかな、という事。
それに彼女との再会を果たせた時の為にトレーニングだってしてる。
尤もそれは畢竟、人は「個」であるという考えに基づくものなのだけれど。
時々、ダンテはよくあそこまで一人の女性ベアトリーチェを愛し、神聖化する事が出来たなと思う。
何故なら僕は、その愛が本物か確かめずにはいられない人間だから。
でもダンテにとってのベアトリーチェは、その必要の無いほど美しい女性だったのだろうね。
今は高村光太郎の詩集『智恵子抄』を読んでいます。
愛と、結婚によって結ばれた二人の。
Sincerely,
Σigma