(先回のつづき)

 

続編が遅くなってしまいました(^^ゞ

 

まずは、要点を簡単に振り返ります。

 

 

アレイスター・クローリーは、20世紀の最も影響力のあるオカルト主義者で、

黒魔術の悪魔儀式を執り行う有名な魔術師でした。

 


この魔術師は、英国諜報機関や英国政府、およびアメリカ政府の

高位メンバーと協力・連動し、世界で最も強力な人物たちの一部との

関係を持ってきた人物とされています。

 

 

つまり、闇の支配者と共謀するトップエリートたちは、

魔術師クローリーを介して悪魔からの指示を受け、

 

悪魔のシナリオに沿って悪魔の意志を遂行することにより、

その見返りとして、莫大な富・地位・名声・権力などの栄光を与えられてきた、

ということになります。

 

ごろつきに過ぎないこの魔術師が、20,21世紀の世界に最も大きな影響を

及ぼしてきたとまで言われているのは、彼が、

 

超エリートたちに悪魔からの指示を告げる”経路”となっていたからでした。

 

”超人間的知性アイワス”が発した言葉ー「法の書」に記されたメッセージは、

闇の支配者、および英米政府とその共謀者たちに与えられた指示であり、

彼等が遂行しなければならない任務であったと推測できます。

 

 

彼等は,「世界対戦」という恐るべき犯行を組織的に実行することにより、

確かに,アイワスの指示通りに物事を遂行してきたと言えます。

 

歴史が、それを証明しています。

  

 

”超人間的知性アイワス”からの指示は以下の通りでした。

 

 

キリスト教の信仰にとどめの一撃を与え、そして廃墟の上に,「セレマ」

-ギリシァ語で「意志」の法に基づく新しい宗教を構築することであると。』

 

 

アイワス(=悪魔)の言葉は1904年発行の「法の書」に記録されていたことから、

 その指示の中の『廃墟の上に...』とは、10年後に開始させるつもりでいた

二つの世界対戦(1914年~)』を意図して語っていたと言えます。

 

 

つづく『「意志」の法に基づく新しい宗教を構築すること

という指示の意味と、

 

それがどのように実行されてきたかについては、

すでに考察し、解明してきました。

 

 

もう一つの悪魔の人類に対する重要な目的について.....、

悪魔は、自らの真の目的については徹底的に隠ぺいしてきましたが、

 

大衆にはその意味が理解できないような仕方で、

「法の書」の中で予言的に暴露していたのです。

 

 

アイワスの言葉によれば、悪魔の本当の狙いは、

 

ある特定のキリスト教の信仰に とどめの一撃を与えて根絶すること

 

であったと言えます。

 

”超人間的知性アイワス"自らが、彼が残した聖典である「法の書」で

そう語っているからです。

 

悪魔が、『とどめの一撃を与えて根絶させたかったキリスト教の信仰

とは....、

 

どのキリスト教の信仰を指していたのかを見極める必要があります。

 

 

        .....................

 

 

第二次世界対戦当時のドイツ国民の6,500万という人口のうちの

2,000万人はカトリック教徒であり、

 

4,000万人はプロテスタントであったといいます。

 

  https://wol.jw.org/ja/wol/d/r7/lp-j/101989244

 

当時、殆どのドイツ国民が、主流をなすキリスト教世界に属していました。

 

 

キリスト教諸教会が取った立場について、歴史学の教授ジョン・ワイスは

自著「死のイデオロギー」の中で、次のように書いています。

 

  https://wol.jw.org/ja/wol/d/r7/lp-j/1997609

 

福音教会は1934年に、

『ルター主義はナチスを迎え入れ』なければならないと主張し、

 

『主なる神』がドイツ人に『敬虔で信頼できる大君』を

与えてくださったことに感謝した。

 

……プロテスタントのある監督は、

『神は我々のためにヒトラーを遣わしてくださった。』

と教区内の聖職者に書き送った。

 

ワイスは続けて、

 

「ドイツのメソジスト教会は、…

…ヒトラーが、差し迫るボルシェビキ革命からドイツを救い…

…平和と安定をもたらしたと主張するディベーリウス監督に同調した。…

 

モルモン教会も、そのヒトラーに反対する者は

モルモン教の規定を犯していると信者たちに忠告した。」

 

と述べ、さらに加えて、

 

カトリック教徒はこの新しい国家に従うのは神聖な義務であると教えられ、

 

その義務は、東部で起きていた戦慄すべき事柄(ホロコースト)の全貌を

聖職者が知った後にも一度も撤回されなかった。」と述べました。



しかし、エホバの証人はどうだったでしょうか。

 

 

ワイス教授は、「一つの組織としてナチスに抵抗したのはエホバの

証人だけだった」ことを指摘し、彼らのうち幾千人もが投獄されたが、

 

強制収容所に送られる証人はだれでも、自分の信仰を捨てる宣言書に

署名するだけで釈放してもらうことができた」と述べました。



エホバの証人の忠誠に関して、ワイス教授は次のように注解しています。

 

「彼らの示した模範は、類例のない断固たる勇敢な力を如実に示している。

 

その力は、初期キリスト教が制度化され、妥協を排した生き方を願う気持ちが

社会秩序への専心によって踏みにじられる前に存在していた力である。

 

あるプロテスタントの牧師が彼らに関して述べたように、

 

ナチという悪魔の猛威に立ち向かうべく最初に立ち上がり、

自らの信仰に従ってあえて抵抗したのは、主流を成す諸教会ではなく、

これら中傷され嘲笑されていた人たちであった』」。

(転載 終わり)

 

 

1995年、アウシュビッツ解放50周年記念として開催された

「エホバの証人とホロコースト(大虐殺)に関するセミナー」の席で、

ドイツの歴史家デトレフ・ガルベは次のように述べました。

 

「1939年に第二次世界大戦が勃発した時、

すでに6,000人の証人たちが収容所や刑務所に入れられていました。

 

第三帝国初期に自分がエホバの証人であることを認めた2万5,000人のうち、

幾ばくかの期間投獄された人は約1万人に上ります。

 

そのうち、2,000人を上回る人々が強制収容所に収容されました。

 

これは、ユダヤ人を除けば、エホバの証人がすべての宗教団体のうちで

SSから最も厳しい迫害を受けた人々であるということです」。

 

    https://wol.jw.org/ja/wol/d/r7/lp-j/101995603

 

 

ここで特に注目したいのは、ワイス教授が指摘した以下の点です。

 

 

『「一つの組織としてナチスに抵抗したのはエホバの証人だけだった」

 

彼らのうち幾千人もが投獄されたが、「強制収容所に送られる証人はだれでも、

自分の信仰を捨てる宣言書に署名するだけで釈放してもらうことができた

 

 

   ...........................

 

何故、エホバの証人だけに釈放のチャンスが与えられたのか?

 

 

『(第二次大戦当時)フランスの元大統領であるシャルル・ド・ゴールの姪、

ジュヌビエーブ・ド・ゴール夫人は、フランスの地下抵抗運動の一員でした。

 

夫人は(ナチスに)逮捕され、その後、1944年にラベンスブリュック強制収容所に

投獄された時、エホバの証人に出会いました。

 

第二次世界大戦後、ド・ゴール夫人はスイス全国で講演を行ない、

しばしば証人たちの忠誠と勇気について話しました。

 

1994年5月20日に行なわれたインタビューの中で、

夫人は証人たちについて次のように語りました。


「証人たちは収容所に最初に入れられた人たちの中に含まれていました。

すでに亡くなっていた人も少なくありませんでした。

.....彼らは独特な記章を着けていたので、見分けがつきました。

 

 

  ※紫色の逆三角形(パープルトライアングル)の記章をつけていた

   

 

 

....彼らは自分たちの信条について語ることや、なんらかの宗教書、

特に聖書を持つことを固く禁じられていました。

 

聖書は治安を乱す最たるものとみなされていたのです。

 

....私は、聖書を数ページ持っていたために処刑された(一人のエホバの証人)

を知っています。また、ほかにもそのような人がいたと聞きました。....


「彼らに関して私が非常に感心したのは、彼らは信仰を放棄する書類に

署名するだけで、いつでもそこから去ることができたということです。

 

 

結局のところ、いかにも弱々しく疲れ果てているように見えた

これらの女性は、SSよりも、つまり力があり、

あらゆる手段を自由に行使できた者たちよりも強かったのです。

 

エホバの証人には強さがありました。

 

そしてだれも打ち負かすことができなかったのは、

彼らの意志力だったのです」。 

 

 (目ざめよ!95/8/22より)

 

 

 

   動画:「エホバの証人 ナチスとの戦いの記録」 

  

 信仰を放棄する宣言書に関するエホバの証人による証言は20分30秒~

 ド・ゴール夫人の証言は21分46秒~

 

 

 

 

エホバの証人だけに提示された釈放のチャンスを与える「宣言書」に

含められた条件とは、以下の通りでした。

 

    ...........................

  https://wol.jw.org/ja/wol/d/r7/lp-j/1101993040

 

ナチスによって作成された宣言書

 

・ 私は国際聖書研究者協会(ものみの塔協会)が誤った教えを

 宣明していると認め、宗教を装って国家に敵する目的を

 追求するものであると認めるゆえに、その組織から完全に離れる。

 

 (※当時のエホバの証人は、「国際聖書研究者」と呼ばれていた。)


・ 私は協会のいかなる活動にも二度と加わらない。

 

  聖書研究者や聖書研究者とのつながりが少しでも

  ありそうな者がいれば、直ちに通報する。

  聖書研究者の文書はすべて即刻最寄りの警察署に引き渡す。

・ 国家の法を尊び、特に戦時においては武器を取って祖国を守る。


  ........................

 

 

ホロコースト大辞典」の120Pにはこうあります。

 

『1938年以降、エホバの証人には、もし彼等が国際エホバの証人協会

における彼等の信仰と会員資格を取り消す声明にサインし、

 

同宗教信者を非難することを約束し、軍務奉仕に同意するならば、

強制収容所と監獄から釈放されるチャンスが与えられた。

 

殆どの証人たちはそんな宣言書にサインしなかった。』

 

 

(ザクセンハウゼン強制収容所では、宣言書にサインしなかったことで、

終戦までに40人以上の証人たちに死刑が執行されたと記録されている。-120p)

 

これらの宣言書の内容からして、ナチスは明かに、

個々のエホバの証人に対して、

 

ものみの塔協会の聖書の教理に対する信仰を捨てるように』と

要求していたことが分かります。

 

 

それを要求していたのは、ナチスであり、ナチスにそれを指示していたのは

スポンサーである闇の支配者であり、

 

闇の支配者の背後で命令していたのは悪魔でした。

 

 

つまり、悪魔は、エホバの証人に対して、『ものみの塔協会から脱退する』こと、

そして、『エホバの証人としての信仰を捨てる』ことを要求していたのです。

 

 

悪魔にとって、他のキリスト教諸教会であればどれでも、

全く問題はありませんでした。

 

 

問題だったのは、

『”エホバの証人”というキリスト教の組織に属していること』でした。

 

エホバの証人だけが、聖書に対する正しい知識と理性により、

エホバ神が非としておられる戦争、国家崇拝などの偶像崇拝、人種差別などを

断固として退ける揺るぎない忠誠心勇気(信仰)を示していたからです。

 

 

この他に、証人たちは、ナチスの親衛隊から

『聖書を偽りの教理と考えるように要求された』と述べています。

(動画20:40~)

 

 

これもまた、エホバの証人だけに要求されたことであったことから、

 

エホバの証人だけが、聖書の正しい知識を持っている』と、

悪魔がそう認めていたことを示しています。

 

 

悪魔の真の狙いは、エホバの証人を殺すことではありませんでした。

 

ワイス教授やド・ゴール夫人が認めていた通り、

悪魔が根絶しなければならなかったのは、

 

証人たちのエホバ神と聖書に対する揺るぎない忠誠と、

信仰に裏打ちされた勇気でした。

 

 

それでナチスは、計200人ほどの証人たちを見せしめのために死刑に処し、

恐れさせた上で、他の全ての証人たちの信仰を捨てさせようと試みたのです。

 

彼等は敗北しましたが....。

 

そうしますと、戦時に収容所を2万か所も開設し、ユダヤ人を大量に虐殺し、

最高度の恐怖と戦慄を覚えさせてきたその最重要な目的とは、

 

証人たちに恐怖を抱かせるため、

 

証人たちに対するありとあらゆる虐待や蛮行を実行しやすくするため、

 

また、証人たちの信仰を根絶することが最大の目的であったという事実を

埋もれさせて、隠蔽しやすくするためであった可能性が高いということになります。

 

   ...........................

 

以下は、先回の記事の続きです。

 

ナチスの「反ユダヤ政策」が、エホバの証人に対する攻撃に覆い被せるように

進められていたことが読み取れます。

 

※の紫文字はブログ管理人による解説です。

 

...........................

 

第二次世界対戦で、ドイツのユダヤ人の生活は一変した  

    ホロコースト百科事典

 

「1933年当時、ドイツに住んでいたユダヤ人は約50万人。


ドイツにいたほとんどのユダヤ人は、ドイツ語を話すドイツ人であることを

誇りに思っていた。

 

第一次世界大戦中には、10万人を超えるドイツ系ユダヤ人がドイツ陸軍に

服していて、その多くが勇気をたたえる勲章を授けられていた。

ほとんどのユダヤ人は、ドイツ人としての将来に自信を持っており、

ドイツを自分たちの故郷と見なしていた。

ナチスが政権の座に就くと、ドイツ系ユダヤ人の生活は一変した。

1933年4月1日、ナチスは計画していた反ユダヤ活動を全国規模で

初めて実施した。」

 

 

以下の資料は2003年の「ホロコースト大辞典」から

 

(先回の記事のつづき 118p) 

 

1933年1月、ナチスが政権を握った後

 

エホバの証人は「ハイル・ヒトラー」の敬礼で腕を上げることを拒否し、
カギ十字章の旗を掲揚せず、ナチスの選挙や国民投票で投票しなかった。

ドイツ労働戦線に参加せず、冬季救済事業(軍事に関係する)に

献金ぜず、子ども達が、ヒトラー・ユーゲントに加わることも許さなかった。

 

エホバの証人はしばしば拘留され、殴打された。


彼らの事務所は捜索され、破壊され、資金は没収され、

出版物は検閲され、禁止された。

 

※33年3月20日:ドイツ親衛隊がミュンヘン郊外にダッハウ強制収容所を設立。


何百人ものエホバの証人たちが、いわゆる『保護政策』で、

刑務所や強制収容所に拘留された。


33年4月にエホバの証人の団体と印刷物が帝国全域で禁止された。

 

※33年4月、ドイツでユダヤ人が所有する店舗や事業のボイコットが始まる。

 

33年6月下旬、警察がエホバの証人のマグデブルグの事務所を占拠し、
彼らの地所と印刷工場を押収した時、脅迫と報復の政治が拡大した。

8月下旬、約60トンの聖書と他の文献が燃やされた。

 

(119pより)

1935年1月23日、ドイツ帝国とプロイセンの内務大臣はドイツの

「ハイル・ヒトラー」の挨拶を使わないと、官庁や民間企業から解雇される

ことになると布告した。

 

36年2月2日、ドイツ帝国とプロイセンはの労働大臣は、エホバの証人には

すべての失業手当や年金が留保されることがありうると布告した。

 

彼等の個人的な財産や事業の財産も、

破壊分子と敵の財産没収法を適用して没収できるとされた。

 

この没収法はもともとは、追放され国籍を奪われた政治的な敵の資産を

取り上げるために使われたものだった。

 

※1935年9月、「人種法(ニュルンベルク法)」法案が可決された。

 

ニュルンベルク法とは、非アーリア人(=ユダヤ人)から公民権を

はく奪する法であり、ユダヤ人を蔑視、憎悪するよう誘導するもので、

ユダヤ人の仕事や資産を含む諸権利は次々とはく奪されていった。

 

 

エホバの証人はまた人種法に従うのも拒否した。

彼等は「すべての人間が神の目には平等である」と信じたからである。

 

彼等(JW)の失業手当、福祉手当、年金手当はしばしば否定された。

 

35年の強制兵役の導入により、彼等の懲役拒否や戦争関係業務拒否の結果、

しだいに多くの者が刑務所や強制収容所に拘留されることとなった。

 

エホバの証人の子どもはヒトラー・ユーゲントに加入する意志がないことを

理由に、しばしば非行少年と宣告され、矯正施設に監禁された。

 

両親の保護監督権も奪われた。

そのもっともらしい理屈は、ドイツ民放1666条によるものであった。

 

「国民社会主義の精神におけるドイツ的方法から遠ざけることによって、

子どもの福利厚生を危険にさらした。」というわけである。

 

38年までに、エホバの証人の850以上の家族から、子どもが矯正施設、

感化院、ナチスの家庭に移されていた。

 

帝国内務大臣はすべての青少年局や市町村の監督当局に当てて回状を出し、

「政治的に信頼できない家族」から子どもを引き離しナチスの家族に移すことを

命じた。

 

※38年以降、ナチスは、収容所の囚人たちの中で、

 エホバの証人だけに異例の申し出をするようになった

 

 

38年以降、エホバの証人には、もし彼等が国際エホバの証人協会

における彼等の信仰と会員資格を取り消す声明にサインし、

 

同宗教信者を非難することを約束し、軍務奉仕に同意するならば、

強制収容所と監獄から釈放されるチャンスが与えられた。

 

殆どの証人たちはそんな宣言書にサインしなかった。

 

(120P)

35年以降、強制収容所の囚人数が増加する中で、エホバの証人はかなりの

割合を占め、大戦前には強制収容所の全囚人の10%以上に上っていた。

 

38年5月、ブーヘンヴァルトの全囚人の12%がエホバの証人だった。

 

38年に、リヒテンブルクの女性収容所には260人のエホバの証人がいた。

それは囚人たちのおよそ18%であった。

 

 

※収容所の囚人としてのエホバの証人の数が目立つようになったその頃、

38年11月9日~10日にかけて「水晶の夜」事件が起きる。

 

同事件は、ユダヤ人青年によるパリのドイツ大使館員銃撃を口実に、

ナチ党の指令で全国の都市のユダヤ人居住区(ゲットー)が襲撃された

ユダヤ人排斥事件である。


その結果、11月9日夜から11日にかけ、全国で大迫害が起こり、

7500に及ぶユダヤ人住居、商店、デパートなどが破壊掠奪され、

 

数百におよぶシナゴーグ(会堂)が破壊放火され、また数百近いユダヤ人が

殺され、有産者を中心とする3万人近くが逮捕され、強制収容所へ送られた

 

「水晶の夜事件」ー ヒトラーユーゲントが加わっていた。(写真)

  

 

1939年、ドイツ軍によるポーランド侵攻。第二次世界対戦が始まる。


1940年以降、占領されたヨーロッパからやってくる

あらゆる種類の囚人で収容所の人口が増大したその結果、

 

全ての収容所でエホバの証人の割合は減少した。

(ホロコースト大辞典からの抜粋 終わり)

 

 

(まとめは次の記事で。その後はマイケル事件検証に戻ります。)