伊藤大貴さんは、2024年もすごい。
心から尊敬、憧憬。
この秀逸な文章の中には、ウクライナもガザも台湾海峡も、気候変動もインフレも米国社会の分断も、少子化も社会保障費も新NISAも、AIもメタバースもブロックチェーンも、そういった文言は一切出てこない。
なぜなら、それらは当然の所与の条件として、伊藤さんが受け入れ、思考の前提としているからに他ならない。
ChatGPTの活用が云々などと嘯いている人たちには、大いに赤面してもらいたい。
伊藤さんにしてみれば、何を今さら大きな声で、というところだろう。
唯一、”コロナ”が、時代区分を表す語として登場するに過ぎない。
通常、否定的な意味でしか用いられることのない ”新しい資本主義” にいたっては、「運以外、何者でもない」扱いされるのだから、もはや恐れ入ったとしか言いようがない。
というか。
ぼくらはすでに、「畢竟、」ではじまるタイトルに圧倒されている。
つまりこの文章は、『坊っちゃん』も『舞姫』も、『ハムレット』も『白鯨』も、最低限の教養としてみんな読んでるよね? そうでない人にはうまく伝わらないかも、というレベルの読者層を想定している。
この突き抜けるまでに痛快な文章を書かせているものは、伊藤さんのこれまでの必死さの総量そのものであり、ただ単なる才能と呼ぶにはあまりにも重厚な、彼の活力の積み重ねには最大限の敬意を払いたい。
嫉妬でないとするなら、羨望の的でしかない。