私の父はタクシーの運転手でした。
私は父がタクシーの運転手であることを、子どもの頃から友人に話せませんでした。
友人に父の職業を聞かれたら「会社員」とか「普通のサラリーマン」と答えていました。
確かに、会社員であることには間違いないのですが、どうしても父がタクシーの運転手であると話すことが出来ませんでした。
今思うと、父の職業を恥ずかしくて言えないパカ息子だったと自分に腹が立っています。
本当に情け無く、父に申し訳ない気持ちです。
10月は、父の命日があり、亡くなってから今年で18年になります。
父は定年までタクシー会社で働き、私や弟を育ててくれました。
父は、タクシー運転手としては優秀で、福島県内で水揚げ(タクシーの売り上げの事)が、
県内一になって表彰された事もあり、裸の大将、山下清画伯が父のタクシーに乗った事もありました。
ただ、水揚げのうち、四分六分で、父が4割、会社が6割もっていくので、父はいつも愚痴を言っていたのを覚えています。
昼も夜も働いて、明け公休の日は、父の趣味である散歩をいつもしていました。
私は大学院まで行かせてもらい、弟は国立大学に現役で行きました。
32年前、父が定年後、嘱託でタクシー運転手をしている時の事でした。
夜、父の会社から電話があり、父が交通事故に遭ったとの知らせが入りました。
私が大学2年、11月の事でした。
その時、弟も大学受験を控えていて、母も私もその電話に驚き慌てて、磐城共立病院(現在のいわき医療センター)に行った事を覚えています。
父は、脳挫傷で意識不明の重体でした。
警察によると、飲酒運転の車が父が信号待ちをしている時に後ろから猛スピードで追突してきて、父の車の前にいた、タンクローリーとの間に挟まれてしまったとのことでした。
その後、何日かして、父の意識は戻りましたが、後遺症が残り、足が不自由になりました。
父の意識が戻って、第一声が
「お客さん乗ってなくて良かったな。」でした。
今思えば、父は本当にプロでした。
プロ意識の高さ、本当に尊敬します。
私も父のようになプロになろうと、家庭教師を33年間、頑張ってきました。
でも、いまだに父に追いついていません。
さて、父の意識が戻り、リハビリが開始されました。
しかし、問題はここからでした。
飲酒運転で父の車に追突した人間は、なんと
無保険車で、飲酒運転の常習犯でした。
父は勤務中の事故であったため、労災の認定はされましたが、十分な補償は受けられませんでした。
母と私は、いわき市内の弁護士事務所に足繁く通いましたが、資力(つまり相手にお金がない)が無い人と裁判してもお金を払ってもらえないので民事裁判をやるのは無駄だと言われ、裁判を断念しました。
そして、その飲酒運転の人間の刑事裁判がありましたが、
懲役1年、執行猶予5年という、とても軽いもので到底納得できるものではありませんでした。
事故があった32年前は、過失運転致傷罪はありましたが、現在の危険運転致傷罪は無かったからだと思いますが、本当に判決に失望したのを覚えています。
父の介護を母がその後、15年も続けましたが、父は77歳でこの世を去りました。
私は大学2年だったため、大学を辞めて、就職しようかと考えた事もありましたが、運悪くちょうどバブルが崩壊し、大不況になったため、大学を出なければと思い、その後、奨学金を借りて、大学院まで行かせてもらいました。
今思えば、父や母が大変なのに、大学院まで行くなんて、なんと親不孝かと思いますが、大学院は少人数で、サボることが許されず、人生で一番勉強しました。
おかげで成績もほとんどが優で、首席で、総代もつとめて大学院を修了する事ができました。
本当にわがままを聞いてくれた、父や母に感謝しています。
でも、いまだにその飲酒運転で父の命を縮めた人間を許せない気持ちがあります。
その人間は、その後も飲酒運転で事故を繰り返し、新聞に載っているのを何回も見ました。
父は大好きな散歩をもっとしたかっただろうに、仕事も続けたかっただろうに。
父はどんなに無念だったろうかと。
何故、もっと飲酒運転の常習犯を厳罰にしないのか?
何故、免許取消し後も再び免許が取れるのか?
何故、司法は甘いのか?
交通事故で、家族や大切な人を亡くしたり、後遺障害で苦しんでいる人以外は、本当の苦しみはわからないかも知れませんね。