二階堂上ノ庄の中街道と布留街道の分岐点に2基の大峰山供養塔道標が立っている。左の道標(道標-A)の各面を見ていく。この道標は明治26年の銘があるが近年復元されたもの。
[北面(元西面)]_大峰山上、七十五度供養 



[東面(元北面)]_すぐ、大峰山上、東、天理王命、道 



[南面(元東面)]_明治二十六年五月、世は(者)人、光明組、施主講中 
(※「は(者)」は変体仮名) 



[西面(元南面)]_すぐ、なら、郡山、道 



右の道標(道標-B)は上部のみが残る。正面(元西面)には役行者像が彫られている。現在各面の文字は確認できていない。



右の道標(道標-B)の右側面(元南面)。



右の道標(道標-B)の頭頂部。



東側から。この場所は元は変則四つ辻だったようで、ここから西へ布留街道が分岐していた。



北側から。


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二階堂上ノ庄の中街道と布留街道の分岐点に2基の大峰山供養塔道標が立っている。

左側のものは明治26年の銘があるが近年復元されたもの。ただし、オリジナルとは文字の配置や間隔が少し違っていて忠実に再現されたものではない。南の大峰山、北の奈良・郡山、東の天理王命(<てんりおうのみこと>天理教の親神様、すなわち天理教教会本部)を案内する。

右側のコンクリートの土台上には文政2年(1819年)の役行者道標の一部分(上部のみ)が立てられている。こちらも大峰供養塔道標で、西の法隆寺、北の奈良・郡山、東の丹波市、南の吉野を案内していた。元は高さが80cmほどあったようだが現在は全体の4分の1が残るのみ。

この場所は元は変則四つ辻だったようで、ここから西へ布留街道が分岐し、少し南側で細道が東に分岐していた(上の図参照)。布留街道の川原城・丹波市・布留方面へはここから約200m南の二階堂地蔵堂で東に分岐する。

これら2基は昭和の終わり頃?に自動車事故などによって破損したものと思われる。破損前の2基の姿が天理市史下巻(1976年)などで確認できる。

かつては2基ともにこの辻付近で西向きに立っていたと思うが、元は、現在の二階堂地蔵堂の辻に立っていたものを東西道の拡張の際にこの辻に移したのではないか、とも考えている。

また、辻のすぐ西側にある北菅田池の堤上には、東の丹波市、南の高野山・吉野山上、北の奈良・郡山、西の法隆寺(王寺か?)・大坂を案内する享和元年(1801年)の自然石の道標が移設保存されている。


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<道標-A> 

・各面の内容 

[北面(元西面)]_大峰山上、七十五度供養 
[西面(元南面)]_すぐ、なら、郡山、道 
[東面(元北面)]_すぐ、大峰山上、東、天理王命、道 
[南面(元東面)]_明治二十六年五月、世は(者)人、光明組、施主講中 
(※「は(者)」は変体仮名) 

建立年 : 1893年 (明治26年) 
寸法 : 高113.5cm×幅26cm×厚15cm 


<道標-B> 

・各面の内容 

[北面(元西面)]_(上部に役行者像)、三十三度 
[西面(元南面)]_西、ほりうぢ、北、なら、郡山 
[東面(元北面)]_東、たんば市、南、よしの 
[南面(元東面)]_文政二卯年八月、世話人、… 
(※天理市史(1958年)より。現在は上部以下は欠損しているため文字は確認できない) 

建立年 : 1819年 (文政2年) 
現在の寸法 : [全体] 高32cm×幅21cm×厚18cm [仏像] 高20cm 
折損前の寸法 : 高81cm×幅21cm×厚17cm (天理市史下巻(1976年)) 


北菅田公民館東十字路 (中街道・布留街道)



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