石垣に突如現れた腕。



指差し道標が石垣に組み込まれていました。左斜め上を指差しています。詳しい説明などは記事の最後に。



ふっくらと立体的な腕が丁寧に浮彫りされています。



腕の上には「たうのみ(三)ね」の文字が。



腕の下には「正」の字と、あとは読み取れていません。


 
左側の隙間と右側の隙間。



下の隙間。



自立には向かない形状をしており、石垣に組み込むことを想定して作られたものと思われます。



この場所は、倉橋方面(多武峯街道方面)、外山方面(初瀬街道方面)、忍坂集落への旧道の分岐になっています。道標は写真右手の石垣のどこかにあります。現地で探してみてください。すぐに見つかると思います。



斜め上方向の多武峯を指差す道標。(※道沿いの石垣にあるものの、一応民家の方に許可を得て撮影しています) 



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石垣の中に指差し道標があるのを見つけました。この道標は石垣に完全に組み込まれています。自立には向かない形状をしており、石垣に組み込むことを想定して作られたものと思われます。

石垣の上には(比較的新しい)民家が建っていますが、石垣自体は古い物で、数十年前にこの民家が建てられた際にも石垣は壊されることもなく保存されています。



<案内先や道筋など> 

道標には「たうのみ(三)ね」と刻まれており、この場所は東側の忍坂集落(忍坂街道(松山街道)方面)から来た場合、粟原川左岸を川沿いに初瀬街道の外山に通じる道と倉橋方面(多武峯街道方面)への道が分岐する地点となっているため、この道標は初瀬街道(伊勢街道)や忍坂街道(松山街道)からの旅人を多武峯街道(倉橋)方面へ誘導するためのものと考えられます。

粟原川左岸の道は初瀬街道の外山から宇陀方面への間道(松山街道の古道か?)だったようで、外山の報恩寺北の道標の西面には「すぐ 吉光尼御廟 ひばり山」と刻まれており、古くは大宇陀方面への近道としてよく利用されていた(当時の常道?)のではないかと思います。一方の倉橋への道は現在一部が倉橋溜池の底に沈んでいますが、倉橋溜池最上部から500mほどの区間で旧道が残っています。(季節により藪になる場合があります) 

また、向垣内橋の東詰の辻の辺りには多武峰と初瀬を案内する自然石の道標があったようですが、現在所在が確認できていません。





<様式・形態など> 

指差しの腕はふっくらと立体的で、五條の「しこく道」道標のような少々大雑把なものではなく丁寧に彫られています。

この道標は「たう」が縦書きで「のみね」が横書きになっています。左下には「正」の文字があり、右下の文字は読み取れていませんが「男」や「四月」のようにも見えます。右読みで「○○ ○年 正月」などかもしれません。次回しっかりと文字をあぶり出します。

文字入れスペースの関係もあるのでしょうが、文字が横書きされた道標は非常に珍しく、奈良県内ではこの道標と生駒市乙田町のニケンギョ池北分岐の道標の2基のみを現在確認しています。

 
(横書き文字の生駒市乙田町の道標(左写真)) 


また、石垣に組み込まれた道標というのも非常に珍しいもので、成り行きで壁や石垣に組み込まれてしまった道標が県内には、山添村中峰山(神波多神社北三叉路)御所市佐田(集落東はずれ)香芝市磯壁(法満寺北)葛城市長尾(長尾神社南西丁字路)、五條市滝町(龍光寺下)、小和道2丁石、などにありますが(漏れがあればすいません)、最初から石垣に組み込みれたものは極めて珍しい物でしょう。(これ以外に御所市と五條市に石垣に組み込みこまれているものが数基ありますが、道標かどうかは調査中で確定していません) 


(壁や石垣に組み込まれている他の道標) 



以上です。

今回、引きの写真は載せていませんが、マップには場所を載せているので気になる方は現地で見つけてください。文字は次回しっかりとあぶり出したいと思います。まだまだ調査継続中なので新たに何かわかれば追記していきます。


(※道沿いの石垣にあるものの、一応民家の方に許可を得て撮影しています) 



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・各面の内容 

[東面]_たうのみ(三)ね、(長い腕が左指差し)、○(男?四月?)、正 
[他面]_不明(文字なし?) 




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