古い記事をリニューアルしました。(2023/12/7)
山辺赤人墓を案内する道標。和歌が刻まれている。
[南面]_山べの赤人古跡、これゟ(合字・より)、八丁北、
赤人のつかの玉浮圖千代ふりて、鳥のあとむすこけのいしふみ、
楳の家
[南面]_山べの赤人古跡、これゟ(合字・より)、八丁北、
赤人のつかの玉浮圖千代ふりて 鳥のあとむすこけのいしふみ
(赤人乃徒可能玉浮圖千代不利天 鳥乃安止武春古計乃以之不三)、
楳の家
[西面]_文字なし
[東面]_文字なし
[北面]_文字なし
頭頂部。
西側から。
南側から。
山辺赤人の墓。
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山部赤人墓を案内する。和歌が刻まれている。
明治41年の2万分の1地形図「白石」では、この道標から北上し霧ヶ平集落を抜けて山辺赤人墓へ通じる古道(明治時代の地図上では破線道)が描かれている。二度ほどその道を歩いてみたが、途中、案内板があるにもかかわらず数か所で藪や廃道化して一部通行困難な箇所があった。道標には「これより八丁北」(約900m)とあるが、実際には11丁(約1.2km)ほどある。
明治地図上では西の額井集落からも山辺赤人墓への道が分岐しており、そこから尾根道をほぼ真北に進むと約900mで山辺赤人墓に着くため、元はその分岐辺りにあったとも考えられる。天満川沿いを通る伊勢街道の旧道に代わって、明治22年に北側の山裾に県道(伊勢街道の新道(現在の国道165号とほぼ同ルート))が開通(榛原町史・1959年)した際にこの場所に持ってこられたのでは…と推測。
和歌や俳句が刻まれた道標は、県内では香芝市穴虫(延宝7年)、葛城市忍海(天保13年)、葛城市染野(年代不明)、御所市鳥井戸(文政8年)、桜井市高田(明治4年)、天理市川原城町(嘉永4年)、吉野町奥千本(年代不明)、宇陀市榛原山辺三(年代不明)、五條市大塔町天辻(弘化3年/復元)、三宅町伴堂(安政5年)、などの10基を確認している。10基中少なくとも6基(おそらく8基)が江戸期のもの。(こいわい調べ)(未リンクのものは道標マップを参照)
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・各面の内容
[南面]_山べの赤人古跡、これゟ(合字・より)、八丁北、
赤人のつかの玉浮圖千代ふりて 鳥のあとむすこけのいしふみ
(赤人乃徒可能玉浮圖千代不利天 鳥乃安止武春古計乃以之不三)、
楳の家
[西面]_文字なし
[東面]_文字なし
[北面]_文字なし
山辺三簡易郵便局南西 (伊勢北街道(青越伊勢街道・初瀬街道)※新道・明治22年)
●大きな地図で見る
<2015/8/19 初投稿>
<2021/11/4 補筆>
<2022/8/10 補筆>
<2023/12/7 リニューアル(写真更新・補筆)>