花形装飾活字を愛でる その74 | 花形装飾活字を愛でる

花形装飾活字を愛でる その74

「花形装飾活字」的な印刷発想のシーン展開について、とその可能性について。最初に明言しておきたいのは「的」であるという事。「花形装飾活字」そのもののシーンの回帰を狙うものではなく、印刷という発想、もしくはイメージ、アイデンティティに対する、シーンの展開、そして可能性について触れていけたらと思います。 最近、個人がやたらに印刷にこだわっているように思います。というのも、残念ながらこだわった印刷ではなく、「印刷にこだわっている」のです。まるで病のように、印刷でのカンプを望みます。もしくは、コンピュータで作る事を望んでいます。それがあたかも神話のように語られます。正しさを追い求める日本人の性とも言っていいような気がします。この願望の強さは異常であるとも言えます。例えばこうです。ある要望では「手書き風で」「筆文字風で」という注文が多い。この矛盾、わかりますでしょうか。なんとも不思議な事を言っているのです。これが現実です。印刷という技術がキチンと使う側に伝わっていない。わかっていないでもいいか。残念です。有り得ない。 そもそも印刷の領域とはなにか。印刷は万能ではない。グラフィックデザイナーもまた万能ではない。何が出来るかからの発想がしにくくなっているのも、また現実です。その要因を挙げ始めたらキリがない。紙でさえ、選択の幅が広がったのは最近である。その自由を選択する事の出来る、そんなパイプの持っているデザイナーもまた少ない。重要なのは印刷とは「搾取」であるという事。気味の良い搾取のウマイのがグラフィックデザイナーとも言う。知らない人達が知っている人にモノを頼んでいるのに、何故こんなにもウマク事が運ばないのだろう。やはり要因は挙げたらキリがない。 実に不思議な状況だと思う。質の良い印刷が出来るようになった。いろんな紙が選ぶ事が出来て加工も自由に出来るようになった。グラフィックデザイナーの質も向上し一般的な認知が向上した。受け手もそれを求めるようになった。が、ここまでの状況を作り出しておきながら噛み合っていない。何故かシーンが1つに偏ってしまっている。こんなのはこの文章で書いてもしょうがないけれど、ある1つのアイデンティティから抜け出せない現状が今であるとも。これ以上先はテーマと違ってくるので書かないでおきます。つまり、目的としての意識が印刷を必要とするシーンであるなら、その目的とするシーンがあまりにも一遍通りであるがゆえに、どうにもこうにも、印刷というシーンが狭まってしまっているように感じずにはいられないのだ。 作る側とて、その底辺の在り方を喋る場合に、明らかにあるアイデンティティを基礎にしているが為に、どうも着地点が見つけれてないのではないかな。もしくは、底辺そのものの在りどころを語る場合に、なにやらその元が無い状況あるのは不幸というべきか、今の現状を語る上で凄く重要です。委ねるシーンの一定論でしかない事が、今の印刷をとりまく人との関わりにも影響をしているのだと考えています。続く。