プルス・ウルトラ―引退を決める時―⑤ | Salon.de.Yからの贈りもの〜大事な事は全てお姫様達が教えてくれた。毎日を豊かに生きるコツ

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元ワイン講師であり歴史家。テーブルデコレーションを習いに行った筈が、フランス貴族に伝わる伝統の作法を習う事になったのを機に、お姫様目線で歴史を考察し、現代女性の生きるヒントを綴ったブログ。また宝石や精神性を高め人生の波に乗る生き方を提唱しています。

新教徒と一戦を交えた末、無理やり結んだ仮協定の2年後。


イスラム教徒の脅威からヨーロッパを解放し、皇帝権力の絶頂にあった皇帝は腹心モーリッツから、インスブルックで夜襲を受けたのです。ドクロ


元々このザクセン公モーリッツはプロテスタント派だったのですが、処世術に長け、プロテスタント側から皇帝の擁するカトリックに寝返り、皇帝に仕官していました。

その為、新教徒の諸侯達の間では、「裏切り者」として非常に評判が悪かったのです。パンチ!


が、しかし、仮協定の受諾を拒否したドイツのマクデブルクを包囲する様に命じられたモーリッツ。



このマクデブルクの王は、モーリッツの岳父に当たるのですが、この時のカールやり方が、日本で言う「踏絵」同様の非情さで、新教徒達にとって屈辱以外の何物でもなかったのです。



流石に心情としてはプロテスタント寄りのモーリッツは、この時の新教徒への冒涜が許せず、カールへの謀反を企て、時を見て、インスブルックにいたカールを襲撃したのです。


モーリッツの謀反を事前に知ったカールは、痛風で痛む身体に鞭打って、イタリアへの分岐点ブレンナー峠を越え、僅か数時間の差で難を逃れたのです。(-。-;)


しかし、窮地を得たとは言え、ヨーロッパ全社会に睨みを利かせていた皇帝の威信は失墜。これまで新教徒を抑えつけていた皇帝の立場は一転し、仮協定は再び白紙に戻った訳です。


皇帝生命の全てをかけた、悲願の宗教統一が図れなかったカール。しょぼん


精魂尽き果て、宗教問題に関して第一線を退いたカールは、これ以後、全権を弟フェルディナントに任せ、フェルディナントは新教代表モーリッツと度々会談を交えますが、1855年アウグスブルクの和議によって、新教徒の主張が全面的に認められ、新・旧同権となったのでした。


40年も間トップに君臨し、その殆どの時間をスペインの王宮の外で過したカール。

その間、最愛の妃イザベラを亡くしたカールを支えてくれたのは、姉妹弟の絆の強さでした。


そして、何とか皇帝の心を支えていた心棒が、ポキリと折れたのは母ファナの死でした。しょぼん


カールが生まれる頃から精神に異常をきたし、遂には発狂し、カールの義祖父アラゴン王フェルナンドによって座敷牢で幽閉生活を余儀なくされた母。


親孝行なカールは、旅から戻ると必ず母を見舞ったのだそうです。


正気でなくとも自分を産んでくれた母の存在は、孤独な皇帝カールにとってかけがえのないものだったのでしょう。


晩年少しずつ勝運に見放されていくカールは、母の死を境に、尤も由緒ある金羊毛騎士団団長の辞職を筆頭に、帝国領土に納めた全ての君主の地位を始め、あらゆる官職を惜しげもなく退きました。


杖を付き、従者に支えながら会場の中に進み、自分の人生を回顧する様に引退の辞を述べるカール。


冒頭で紹介したゲーテの戯曲にある独白の「あの方が息子様にここの支配を譲った時には、わしら皆で泣いたもんだった」と言う様に、引退のセレモニーでは会場からはすすり泣く声が聞こえたと言われます。しょぼん


引退後はサン・ユストの修道院に隣接する山荘に居を移しましたが、どうも世間はカールを隠居させておかなかった様で、カールを頼る者は後を絶ちませんでした。


スペインの国政に関する報告書や諸外国の情勢を伝える文書が届られ、後継者である嫡男フィリップからは父の判断を仰ぐ書簡が舞込む等、従来の様に直接政治に関与しなかったものの、丁寧に書簡を読んでは、その都度、時宜に適った書簡で返答を送っていたのです。


長きに亘りトップに君臨すれば、やがて体力・気力共に限界を感じる時が来ます。


自分で幕引きを決めるのは覚悟がいるものでしょう。


民衆やヨーロッパ社会の平和の為に、情熱を失ったまま第一線に立つより、若々しい観点で世の中を良き方向に導く方が余程良いとして、全ての栄光を手放した事は潔く、皇帝の勇気と英断はやはり王者に相応しい判断だったのではないでしょうか。


「中世最後の皇帝」と呼ばれた、カールのこの世での最後の言葉は「プルス・ウルトラ」もっと先へ、でした。

・・・to be continued