「全一学とは何か」

 

6月10日(月)入梅。時の記念日。

 

森信三先生提唱の「全一学」(日本的哲学)を理解するため、「全一学とは何か」をほぼ原文のまま紹介しています。本日はカント、フィヒテ、シェリング、ヘーゲルなど西洋の哲学思想を瞥見し、ライプニッツの単子論と華厳の重々無尽論の酷似を東西思想史上における奇蹟的契合と指摘しています。

 

・カントにあっては神の存在、不死霊魂の不滅などは、理性の要請ではあっても、これを客観的に論証することは不可能としたのである。カントを受けたフィヒテは、カントにおける意識一般が認識主観として超個人的自我であったのを実存在――自我を宇宙的原理とした絶対的自我の形而上学を説いたが、次に出たシェリングは、フィヒテのような自我の絶対化は行き過ぎとして、自我と自然界との一如相即を説く所謂同一哲学を説いた。

 

同時にシェリングは当時の電磁気における電極の陰陽に触発され、ある意味では「易」の一面に通じつつも、結局それは易理のように自然界を超えて天地人生の凡てを貫通するものとは洞観しえなかったのである。

 

これに続くへーゲル哲学の根本性格が、宇宙的ロゴスの自己展開としての弁証法をその根本特色としたことについてはすでに一言した。

 

・西洋の哲学思想を形而上学すなわち世界観構造という観点から大観的に瞥見を試みたわけである。中国思想については、「易」の循環論を以って代表し、仏教については、その窮極とされる華厳の哲理を以って代表させるべきかと思う。*華厳の重々無尽論=この世界の実相は個別具体的な事物が相互に関係しあい、無限に重なりあっているという考え方。

 

ただライプニッツの単子論が華厳の重々無尽論と符節を合わせるが如く酷似するのは、世界の全思想史上にも全くその類例を見ない東西思想史上における奇蹟的契合という他ない。

 

・以上東西の哲理をその世界観構造という観点から見る時、絶対的全一生命が“いのち”の絶対的本源という点からは、これを静的観点より動的観点から見る方が相応しいといえるであろう。もちろん最根本的には絶対的全一生命は、その絶対性のゆえに、根源的には動静の二面を超出すべきは、改めていうを要しないことではある。