「全一学にたどりつくまで」(講演)

 

4月8日(月)花まつり。

 

森信三先生提唱の「全一学」(日本的哲学)を理解するため、「全一学にたどりつくまで」の講演(昭和52年)から抜粋しています。本日は、「東西文化の別も次第に緩和し融合する方向の中で最も貢献をするのは日本民族ではないか」と述べています。

 

近ごろ「哲学」というコトバを使いたくなったーーと申しましたが、その理由を考えてみますと、哲学という学問はギリシャのプラトン及びアリストテレスにその端を発し、その後近世に入りカントという超凡な大哲学者を輩出し、その後フィヒティ、シェリング、ヘーゲルなどを通って、現在はハイデッカー、ヤスパースなどに到った滔々たる西洋哲学史上の思想的大流が頭に浮かんできてならないのです。

 

ところが、さらに大観の立場に立ちますと、東洋の天地にもまた古来世界観、人生観の学は無かったわけではないのでありまして、現にインドには仏教以外にも色々な哲学思想がありますし、また中国にも儒教や老荘などという独自の思想の流れがあるのであります。

 

また仏教はインドに端を発し、その後中国をへてわが国に伝わり、現在では最後のわが国において最も盛んだといってよいでしょう。このように考えますと、世界観や人生観を求めてきたのは、何も西洋人種だけではなく、東洋人もその方法では西洋哲学と趣を異にしているとはいえ、世界観、人生観を求めて来たのであります。

 

かくしてこの頃のように、地球の実質的面積が次第に狭くなって、東西の接触や交渉が以前とは比較にならほど互いに接近し交錯してきた現状を見ますと、これまで世界観、人生観と考えてきたものも、今後は次第に変化してゆくのが当然であります。

 

したがって、これまでのように、西洋哲学のみを絶対視し、それを基準とするわけには行かなくなってきたのではないかと思うのであります。実はこうした考えが私自身の内部にも、次第に兆しそめてきたのであります。

 

人類は将来、文化における東西の別も次第に緩和し融合する方向へと、極めて徐々ながら次第に進行していくのではないかと思うのであります。しかもそのような方向への歩みにおいて、最も大きな貢献をするのは実は日本民族であり、そうでなくてはなるまいーーと思うのであります。