インドでスピリチュアル修行(瞑想修行)をやっても、結局は自分自身でやることに変わりはなかった。

瞑想をひたすら続け、グルの話を聞く。

インドという地でやること以外、どれも日本で、自力でできる。

それこそ、座禅修行をやる寺で泊まり込み合宿をしてもいい。

それだって、環境が普段の社会とは隔絶された空間だから、気持ちのリフレッシュと刺激になるだろう。

ということは、結局自助努力しかなく、参加者の多くが一線を超えた効果がなかったのもうなづける。

多くの参加者がこのスピリチュアル修行を終えたら、人生が大きく変わるという淡い期待を持っていたと思う。

インドくんだりまで来て、ただの風変わりな体験をするためだけという人は少ないだろう。

海外まで行くだけの『変わりたい』何かがある。

そうなると、インドのスピリチュアル修行は、結局瞑想修行と同じで、なかなか変われない自分という壁の高さに直面するだけだろう。

瞑想をずっとやった人ならわかると思うけれど、どうしても自分という障壁にぶち当たる。

自分が一番邪魔な存在ということに気づくことは大きな進歩だが、突破できないもどかしさも同時に感じる。

これがとても苦しい。

中には『本当の自分』を発見し、感動の涙を流す人もいて、とても感動的だ。

私もそういう経験がある。

しかし、何か心に処理しきれない悩み(不安障害やうつやトラウマや抑圧の類)がある人にとっては、残酷でもある。

どんなに頑張っても、悩みを破壊できないどころか、悩みばっかり執着してしまう。

そこに瞑想の危険性があると言われているし、瞑想の魔境と呼ばれる状態にはまって、うつがよりひどくなった人を何度も見ている。

つまり、インドであろうがバリだろうが日本だろうが、結局はどこでやっても自分に直面する。

これを乗り越えられるだけの効果があるのかと考えると、どうしても難しい。

ある変性意識に入ることはとても大事だし、それはインドで修行したほうが効果も早く得られるだろう。

だが、その変性意識状態はあまりに浅い。

人生を大きく変える効果が出る状態ではない。

たしかにストレスは抜けるし、リラックスはできるし、とても気持ちがいい。

しかし、そんなものは日常や社会の荒波で瞬時に洗い流されてしまうだろう。

変性意識状態やトランス状態に入ったら、人生が変わると淡い期待を持っている人には残酷なことを言うようだけど、その変性意識のレベルでは人生を大きく変わらせることはできない。

その変性意識状態の何万倍も深まらないと、心のスイッチが入らない。

脳は変わらないし、やればやるほど第せいか、陳腐化する。

そこに自力での瞑想修行(スピリチュアル修行)の限界がある。

普段の日常の心身の健康のために、瞑想やマインドフルネスや呼吸法がとても効果的なのは確かだ。

が、もっと深いところ、決定的なところを求める人にとって、インドで修行しようが、座禅寺で修行しようが、結局は変わりはない。

余談だが、変わるためにスピリチュアル修行、瞑想修行をやると変わることはできない。

しかし、やっている途中から、「変わらなくてもいい、求めなくてもいい」心境に達した人こそ変わってくれる。

変性意識も劇的に深まってくれる。

ここはとても重要だ。

もしインドで修行することに意義があるとすれば、隔離された空間でその心境に達しやすい環境がそこにあるということだろう。

インドという魅惑的な地だろうが、結局人は環境に慣れていく。

惰性化、陳腐化するし、それはインドも日本もアメリカもどこでやっても同じだ。

だから、インドに憧れを持つのではなく、瞑想や変性意識やスピリチュアルの本質を知ってからはじめてインドに行ったほうがいいと思う。

インドに限らず、同じスピリチュアル修行をした仲間たちは、その後、バリやアメリカや東南アジア諸国、そしてヨーロッパや南米、オーストラリアに至るまで、シャーマンやグルやスピリチュアル指導者やワークショップを求めて放浪し続けている。

それ自体が目的になって、最初の本来の目的がどこかにいってしまっていると感じる。

ドクターショッピングをして、病院に通うことが目的といつの間にかなってしまう人に状況が似ていると思う。

私も人間的興味からインドのグルや世界のシャーマンに会うようになったが、結構ガッカリするような俗物が多い。

あんまり夢を壊したくないけれど、やっぱりお金儲けでやっているんだなと思わざるを得ない人が多い。

口では素晴らしい言葉を発するけれど、人間というのはスピリチュアルで名を成した人だろうが、高僧だろうが、本質は変わらないものなのだ。

これはとても楽しい発見だった。