長浜が生んだ幕末の偉人 宇都宮黙霖 | PRAINSのブログ

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こちらの肖像写真を見て彼が誰だかわかった人は相当呉の歴史に精通してる人だと思う

呉は明治に入り大日本帝国海軍の鎮守府が置かれた事により急激に発展し
日本の歴史の表舞台に登場するようになったが、それまでの呉はのどかな漁村だった

だから明治維新を迎える前の江戸時代には呉出身で
日本史の表舞台に登場するような名のある人はほぼいない

唯一幕末期に名を残した人が僧侶であり思想家だった
僕の故郷である長浜出身の宇都宮黙霖(うつのみや もくりん)である

宇都宮黙霖は長州藩の吉田松陰と文通しながら倒幕攘夷を決心させた思想家であり
病により若くして聾唖となった西本願寺の僧侶で、諸国を巡った徹底した倒幕論者だった


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僕たち長浜っ子は小学生の頃に故郷の英雄である宇都宮黙霖や
黙霖が残した書庫である石泉文庫(せきせんぶんこ)の事を学んだ


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宇都宮黙霖は1824年(文政7年)9月に安芸国賀茂郡広村字長浜
現・広島県呉市広長浜三丁目の住蓮寺で生まれた

ちなみに2枚目の写真が現在の住蓮寺だが住連寺は
黙霖の母の姉の嫁ぎ先だった

15才の頃に同じく長浜にある専徳寺に引き取られ常諦によって
大学を初めとする漢学や国学などを授けられた


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       写真は松蔭神社内の吉田松陰歴史館にある黙霖と月照の等身大蝋人形

ちなみに月照は昨年の大河ドラマ「西郷どん」にも出ていたが
西郷さんと共に錦江湾に身投げ自殺した僧侶
その時月照は水死したが西郷さんは奇跡的に助かった


1855年(安政2年)当時幽囚中の吉田寅次郎(松陰)の著した「幽囚録」を見せられ
その尊皇・憂国の情に感激し、面会を望んだ

しかしながら、幽閉中の身である松陰との面会は許されず
9月12日に松陰宛の手紙と詩数編を送った

以後、黙霖と松陰との往復書簡は黙霖から松陰宛12回
松陰から黙霖宛14回、延べ26回にに及ぶこととなる

二人は生涯一度も顔を合わすことはなかったがこの書簡により
その後の松陰の思想に多大な影響を与えたとされている


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1858年(安政5年)7月頃、黙霖は安政の大獄により
備後三原で広島藩に捕らわれ藩牢に送られたと伝えられている

出獄は安政の大獄が静まった1860年(万延元年)である
獄中にいた黙霖は吉田松陰や母の死も知る由もなかった

明治維新後に還俗し数年後に郷土呉に戻った黙霖

明治14年頃、従来より親交のあった当時の呉の郡長である
「この世界の片隅に」で三つ蔵が描かれ全国的に有名になった
澤原家に招かれ晩年を送ったそうです

明治30年9月15日に澤原邸で74年の生涯に幕を閉じました
三つ蔵の前には「宇都宮黙霖終焉の地」の記念碑が建てられています

ジャンジャン!!


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