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今週は連日「先祖ネタ」「戦争ネタ」になりますがご容赦いただきたい

昨日記事にした戦後の呉を占領した連合国軍の英兵と結婚して渡英した叔母であるが
彼女には日本で産んだ一人娘がおり、彼女は現在もイギリスに住んでいる

そんな従姉から最初のエアメールが届いたのは東北大震災があった2011年の事だった
東北大震災の事は世界的なニュースとしてイギリスでも取り上げられ
親族の安否を心配した従姉からエアメールが届いたのだった

イギリスに渡った叔母とは長い間音信不通だったし
年齢からして他界していると思っていたから
イギリスの親族とは縁切れになったと思っていたので母も僕も驚いた

その後従姉とは年に数回エアメールやメールでやり取りしているのだが
届いたエアメールには日本の古写真が3枚同封されていた


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「ここはどこ? これは何?」

「これは誰? これはどこ?」

「私の父は左から5番目ですが、他の人たちは誰?」

とは言われても、おそらく写真は僕が生まれる前に撮られた物と推測できるので
さすがの僕もわからないし返答に困っている 笑!

以下の写真を見て、お心当たりがある方は是非ご一報いただきたい!!


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まずは、この写真だが唯一この写真だけ自信を持って答える事が出来る

これは呉湾近くの吉浦沖の無人島「小うるめ島」だと思う
僕は釣りをする事もあり十中八九は間違いなくそう言い切れる

うるめ島には「大うるめ島」と「小うるめ島」の連なる二つの島がある

戦中に、うるめ島は海軍によって戦略的に重要な役割が与えられていて
「大うるめ島」は地下貯油所や弾薬庫が置かれ「小うるめ島」には
出入港する艦船の見張り所が設けられていた


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こちらが現在の「小うるめ島」だが現在では見張り所やタワーは
撤去されているが灯台が設置されている

太平洋戦争末期には「大うるめ島」の地下工場で
特殊潜航艇「蚊龍」が造られていたそうだ

大小の「うるめ島」は1956年(昭和31年)まで
イギリス連合軍の占領下に置かれていたそうだ

従姉の父親はイギリス連合軍の兵士だった
これで十分説明はつく


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リーゼントをキメて、オープンシャツの襟をジャケットの外に出し
太めのマンボズボンに身を包む日本人と思われる青年

見ようによっては全国的に有名な呉のもう一つの歴史である
「仁義なき戦い」な人にも見えなくもないが・・・ 笑!

寄りかかってる石柱には「皇太子殿下御成婚記念樹」と彫り込まれている
この石碑に刻まれている皇太子殿下って昭和天皇陛下の皇太子時代の物なのか? 
それとも平成天皇陛下の皇太子時代の物なのか?

平成天皇陛下が皇太子明仁親王殿下として正田美智子さんと
ご成婚されたのは昭和34年4月10日

叔母夫婦がイギリスに渡ったのは昭和31年の事

う~ん、その部分も含め、この場所がどこなのか、青年が誰なのかは
僕にはまったくわかりません 笑!


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この写真の裏には左から5番目が従姉の父と書かれている
言葉を変えると僕の叔父という事なんだが列に関しては記されてない

で、順に見てみると前列の左から5番目は日本人に見える
ん?前列4番目の彼は2枚目の写真の彼じゃないのか?

中列はちょっと不規則な並びをしているが5番目は西洋人とも言える

後列5番目は間違いなく西洋人、う~ん どっちなんだ?
僕の勘では後列5番目が伯父のような気がするのだが・・・

で、先日手に入れた伯母の若い頃の写真を見ると
この中の女性の中には叔母はいないように見える

料理の善や酒の徳利が出てるから日本人と連合軍兵士との酒宴だとは思うが
場所も、集まってる人も僕にはまったく見当もつかない

もしかしたらこの中に先日四国テレビのクルーを引き連れて呉に取材ロケに来た
当時広工廠に従事してた春藤さんがいるのではなかろうか?

誰かわかる人、何でもいいので情報下さいね!
ジャンジャン!!


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