ペパーミントジャック
ペパーミントジャック/アラベスク 1979
日本の洋楽史上最も売れたヨーロッパ系ダンス・アーティスト「アラベスク」
そんな彼女達のアルバムと共に当時の世相や僕の思い出を
語ってみようという試みのシリーズ「アラベスクな時代」
前回3月29日の第1回目の記事はアラベスク ファーストと題して
ハロー・ミスター・モンキーやバギーボーイ・フライデーナイト・フライ・ハイ
と言ったアラベスクのデビューアルバムに収録されている楽曲と共に当時の思い出を書いた
その後シリーズは消滅する可能性もあったが(笑)思い立ったので
今日はシリーズ(2)であるセカンドアルバム「ペパーミント・ジャック」と共に
当時の世相や思い出を書き綴ってみようと思う
アラベスクは1977年秋に西ドイツ(当時)の音楽出版社の副社長である
ウォルフガング・メーヴェスのアイデアで始まったプロジェクトだった
彼は西ドイツのソングライター、プロデューサーであるジーン・フランクフルターに持ちかけ
当時世界的な人気なっていたスウェーデンのポップ・コーラス・グループ、アバや
ドイツのディスコ・グループ、ボニーMのように
歌ってしかも踊れるグループを世に送り出そうと考えたのである
まず、「ハローMrモンキー」というポップな曲が作られ
これに合う女性シンガーがオーディションで選ばれた
この時点で選考されたのがミカエラ・ローズ、メリー・アン、そしてカレン・アンの3人だった
フランク・フルターがバック・トラックを作り
彼女たちが「ハロー、ハロー、ミスター・モンキー♪」というコーラスを録音した
彼らが英語でこの作品を録音したのは、アバもボニーMも、母国語ではなく
英語で歌い、成功を収めていたからでる
インターナショナルな成功を収めるためには
やはり英語でなければならないと感じていたためである
メーヴェスはこのテープを持って78年1月、ミデムにアラベスクを売り込みに行った
ちなみにMIDEM(ミデム)とは毎年1月フランス、カンヌで開かれる音楽業界の集まりで
世界各国のレコード会社が自社のアーティスト、作品、デモ・テープを持ちこんで
そこに集まる各国のレコード会社や音楽出版社に売り込む見本市である
彼はここで日本の各社に売り込み日本のレコード会社、ビクター音楽産業に見出され契約を結んだ
当時、ビクターは積極的にアメリカ以外のヨーロッパからのディスコ作品を買い付けていたので
このアラベスクもそうした一アーティストに一シングルとして買い付けられた
この曲には、いくつか他の日本のレコード会社へも売り込みがあったが
一番熱心だったビクターがその権利を獲得した
しかし、このときには誰もアラベスクがその後大変なベストセラー・アーティストに
なるなどとは夢にも思わなかった
なにしろ、その時点ではまだシングル1枚しかなく判断材料といえるほどのものがなかったからである
そして、その唯一の楽曲がが、同社から78年4月5日に
17センチ・シングル「ハローMrモンキー」として発売された
4月に発売されたシングル「ハローMrモンキー」はレコード業界関係者の予想を裏切り
まず新宿のディスコを中心に瞬く間に大ヒット!
その波は有線ラジオまで広がり、シングルは最終的に80万枚以上のセールスを記録する大ヒットになる
シティー・キャッツ/アラベスク 1979
一時期、ファンキー系のディスコを除いては、ほとんど日本全国どこのディスコでも
ヘヴィー・エア・プレイされていた
東京だけのディスコに限らずまさに全国津々浦々、各地のディスコで圧倒的支持を集めた
しかも、この頃はアルバムがなかったために「ハローMrモンキー」のシングルB面「バギー・ボーイ」
までがディスコや有線で人気を集めたほどである
この辺りが前回の記事で書いた僕が中学3年生だった1978年の事ですよね
この後メンバーの内メリーがファースト・アルバム発売の前に抜け
その代わりにハイク・ランボーが加入した
ファーストアルバムに付いては前回の記事を参照してくださいね
3月29日の「アラベスクな時代 (1) アラベスク ファースト」の記事
で、西ドイツでもアラベスクのレコードも出たが日本でのブレイクぶりが凄まじく
それに比べて本国ではあまりヒットしなかったために以後はアラベスクとしてのレコードは
ほとんど西ドイツではなくなってしまったらしい 笑!
1978年12月にリリースされ空前の大ヒットになったアラベスクのファーストアルバム
「アラベスク ファースト」から約半年後の1979年7月1日、セカンドアルバムにさきがけて
「今夜もロック・ミー」が発売され大ヒットは続く
そして、これを含むアルバム「ペパーミント・ジャック」が満を持して10月25日に発売される
ここからは、カレンとハイクが抜けて
サンドラ・アン・ラウアーとジャスミン・エリザベス・フェッターに代わった
そしてアラベスクは以後この3人で圧倒的な人気を確立していく
アラベスク セカンド 1979 ペパーミント・ジャック
Side A
1、ペパーミント・ジャック 2、ディスコ・フィーバー 3、今夜もロック・ミー
4、ルシファーズ・ラヴァー 5、ファイアー・オブ・ラブ 6、別れたくないのに
Side B
1、ヘル・ドライバー 2、シティー・キャッツ
3、クロコダイルにご用心 4、プラスティック・ハート
今夜もロック・ミー/アラベスク 1979
アラベスクのセカンドアルバム「ペパーミント・ジャック」がリリースされた
1979年10月と言えば僕は呉工業高校に在籍してた時であり10月生まれの僕は
晴れて16歳の誕生日を迎えた月でもあった
16歳の誕生日を停学中に迎えた僕は(笑)誕生日当日、先日記事にした
当時広島市西区観音にあった運転免許センターに原付免許の受験に行った
とうぜん結果は合格だったが当時は免許証は即日交付されず
実際に免許証を受け取るには約2週間の時間が必要だった
僕は試験場の帰りに呉のバイク屋さん「オート タカハラ」に立ち寄りYAMAHA GR50を注文した
このバイクは親にねだって買ってもらったバイクだった
しかし僕はこの年の夏には無免でHONDA CB400FOURを先輩から買ってすでに乗っていた
フォーワンはバイトしながら月賦で支払っていた
中免を取得するのに三和自動車学校に申し込みはしていたが
実際に入学するのは11月に入ってからという事になっていた
そんな1979年10月のある日、僕は愛車CB400FOURに乗って
広の友人のKAWASAKI KH250に乗ってた「M」の家に遊びに行った
当時の彼は親の都合で祖母との二人暮らしだった
当日Mの家で「悪い遊び」をしようという事になり友人数人で集まっていた
そこでMが買ってきたばかりのLPレコードを取り出しステレオにセットした
塩化ビニールのドーナツ盤に針が落ち、スピーカーからPOPで軽快なリズムが流れてきた
そのアルバムが発売されたばかりのアラベスクのセカンドアルバム「ペパーミント・ジャック」だったのだ
アラベスクのNEWアルバムを聴きながら僕達の意識は遠い所へワープした! 爆!
前回の「アラベスクな時代」にも書いたように1978年にリリースされた「アラベスク ファースト」は
中学時代~高校入学頃によく聴いたアルバムで初体験だったディスコや某「島」での思い出が深い
それに対しセカンドアルバム「ペパーミント・ジャック」は個人的には暴走族というイメージが強い
本格的にバイクに乗り始めた時期だったし実際に土曜の夜の天使にもなってた時代だ 笑!
いつかも記事に書いた当時呉で初の大規模な暴走族の集団検挙として新聞にも載った
伝説の暴走が行われたのもこの時期の冬だった
この時は「広&音戸」の連合軍だったのだが参加した大多数は呉工の生徒だった
僕は広から集合場所の音戸パーキングに行くまでは自分のフォーワンを運転していた
しかし音戸チームと合流後、いざ出撃という段階で呉工の先輩が
バイクを運転したいと言い出したので仕方なしに僕のフォーワンを彼に貸した
バイクを貸した僕は急遽呉工の先輩のブタケツローレルに乗る事になった
音戸大橋の螺旋状スロープの道路に連なる暗闇を照らすライトの帯が幻想的に見える
数十台もの直管のバイクやハコ乗りしたシャコタンの車は爆音を轟かせ
FIAMMの3連ホーンが「さあ!宴が始まるぞ!」と言わんばかりに甲高いメロディーを奏でる
鼓動が高鳴り背中がゾクゾクして武者震いに鳥肌が立つほどの興奮を覚える瞬間だ
呉市街に入ると本通りには鈴なりになった物凄い数の観客が声援を送ってる
観客の声援に応えるように派手なパフォーマンスを繰り広げる演者たち
ハコ乗りした奴や観客から投げ込まれる爆竹が至る所で火花を上げながら破裂音を慣らし宴を盛り上げる
ルシファーズ・ラヴァー/アラベスク 1979
ノーヘルのバイクが3連ホーンを鳴らしながら激しく蛇行運転を繰り広げる
ルームミラーには赤いシグナルを回しながらけたたましくサイレンを鳴らすパトが見える
中央分離帯の切れ目の交差点で激しくサイドターンを切るローレル
その時先輩のローレルのカーステレオから流れていた曲が↑のルシファーズ・ラヴァ―だった
ノリの良いメロディーとローレルから見える景色はまるで映画のワンシーンのようだった
あの時感じた事は36年経った今でもトラウマになっていて
今でもルシファーズ・ラヴァーを聴くと あの時の興奮と光景が脳裏に甦ってくる
てか、アラベスクのセカンドアルバム「ペパーミント・ジャック」を聴くと
あの激しかった青い時代が鮮やかに蘇ってくるのだ
この夜の「宴」は、青い時代のとても刺激的な思い出として今でもハッキリ覚えているが
結局この日の事は警察の知る所になり僕達は後日芋づる式に名前が上がり出頭する事になる
後から分かった事だがこの日の事は事前に警察に情報が漏れており
僕達は集合場所からずっと覆面パトカーに尾行されていたのだった
ちなみにこの時の事情聴取で僕は取調官に2枚の白黒写真を見せられた事を覚えている
「この写真のバイクにの運転手とバイクの持ち主は知らんか?」
1枚の写真はツインエンジンのKAWASAKI Z400にノーヘルで二人乗りしてる写真だった
リアシートの奴は顔が写ってなかったから誰かは特定できなかったが
運転手の草食動物みたいに目の間が離れてる奴は間違いなく呉工のクラスメイトのNだった 笑!
もう一つの写真は↑のセブンスターのキャストホイールが入っているSUZUKI GT380だった
この写真の運転手はヘルメットを被っていたので誰かは分からないが大よその見当は付く
バイクは間違いなく広の先輩の今現在ハーレーのカスタムショップやってるMさんのバイクだ
僕も写真のように借りて乗った事もあるし、当時高価なセブンスターを入れてるサンパチなんて
呉ではMさんしかいませんでしたからな~
「さあ?わかりませんな~ 僕にはまったく誰だかわかりませんが・・・」
この時代、警察や学校に友達の名前をチクる事は仲間を売る行為として
恥ずべき行為であり仲間外れになる事必定でしたからね! 笑!
と、言う事ですがこの事件は新聞に載った事もあり当然学校も知る所になり僕達は全員停学になった
しかも当日バイクや車を運転していた人は全員免許取り消し処分が下った
僕は先輩にバイクを貸していたから当日は運転しておらず辛うじて免許取り消しは免れたのだが・・・
最後はちょっと本題から脱線してしまったがアラベスクの「ペパーミント・ジャック」の時代は
こんな思春期の日常的な思い出とリンクしているのである
と、言う事で今日はこれまで!ジャンジャン!!