プレッシャーをかけるよね~。 | ロンドンつれづれ

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今日からシェフィールドで、マーク・ハンレッティ氏の「アイスダンスのスケートキャンプ」に来ている。

深いエッジや、体重の移動の仕方、押す時だけでなくフリーレッグを戻す時にも前に進むように滑るなど、アイスダンサーのなめらかで力強い滑りのコツを教えてくれて役に立つ。ツイズルも、あんなにできなかったのに、ちょっとできるようになった。うれしい。といっても、せいぜい2,3回転だけど、一回しかできなかったから進歩だ。

もうスケートはシーズンに入っていると思うのは、シェフィールドにいる私に夫が何度もメールをよこし、(仕事はどうした?)やれパトリック・チャンがフィンランディアに来るだの、ヴァーチュー・モイアも来るだの(私は今年は行きません!)2017年のGPFは、名古屋という発表があっただの、やいのやいの言ってくるのである。

夫の送ってきた時事通信の記事には、「名古屋大会は18年平昌冬季五輪の直前となり、前哨戦として注目される。橋本会長は「平昌で弾みをつけ、東京にバトンタッチする。GPファイナルも平昌も一番高い所に(日本)選手がいないといけない」と語った。」と書いてあった。

やれやれ…。 またか。

バルセロナGPファイナルもソチオリンピックも、確かに一番高いところに日本人選手がいた。 しかし、「いないといけない」というプレッシャーはどうよ。 まあ、確かに助成金をもらって練習や遠征をしている選手たちはいるわけだから、まったく自分のため、家族のためだけに試合に出かけているとはいえないかもしれない。特にオリンピックみたいに、国をあげて大騒ぎして、税金をいっぱい投入する場合は「メダルを取って家族やコーチだけに感謝っていうのはなんだかおかしいだろう」と新聞で書いていた元政治家もいた。

しかし、元首相だった人が「国歌も歌えない人は五輪代表とは言えない」とか、あるスケート選手をさして「あれはだって、日本人じゃないだろう?」とか言ってみたり(イギリスでは差別発言として違法)、国会議員が「ファイナルも平昌も日本人選手が一番高いところにいないといけない」と言ってみたりすると、スポーツを政治に使うなよ、と言いたくなってしまうのである。

もちろん、芸術やスポーツはソフトパワーとして外交の場で大いに役に立つが、それはあくまでも民間が主体となり、選手個人が参加するという形で行うべきで、オリンピック憲章ではオリンピック委員会が国別のメダルの数などを発表することを禁止しているというではないか。国同士の戦い、ということは公にはあおらないようにしている。見ている方がニッポン、ニッポンと熱くなるのは勝手だけど。

オリンピックは参加することに意義があるといっても、参加する選手はもちろん勝ちたくて行くのに決まっているだろう。特にトップクラスのアスリートは、勝負して勝つことになれており、アドレナリンの数値も高いだろうから、ぜったいにメダルを狙っていくのである。

しかし、自分の努力を形にしたい、そして自分を応援してくれた家族、友人、そしてファンのために、結果を出すことで報いたいという「個人的な気持ち」が主体となるべきであって、「国家のために勝たなくてはいけない」というようなプレッシャーを「国家」からかけられると、銀メダル、銅メダルでも、「申し訳ありませんでした!」と泣かなくてはならなくなるのだ。

これは行き過ぎではないだろうか。中国の選手が、絶対優勝しなくてはいけない場面で銀メダルだったりすると、実に暗い表情になるのだ。「国に帰って、鞭で打たれるに違いない」と夫はすぐに言う。 飛び込みなどで、ロボットのように完璧な演技を繰り返す選手を見て、「勝たなければ、拷問に合うんだよ」などという。北朝鮮なんて、もっと怖いんじゃないか、と心配する始末である。

国家の威信を世界に示すために調教されたようなスポーツ選手が勝ったところで、なんだかかわいそうになってしまうだけだ。他のことを何もしないで、ロボットのようにこればかりをやってきたのだな。自分が好きでやるならともかく、「勝たなくてはいけない」と言われ続けてきたのだな、と、いくら金メダルを首にかけて微笑んでいても、なんだか素直に祝福できないのだ、かわいそうで。

もちろん、日本の場合、共産圏の国々よりはましだろう。

それにしても、あまり政治家がスポーツ界にしゃしゃりでてきて、いろんな感想を言わない方がいい。

「一番高いところ」に行ければそれで結構。いけない場合だって、それまた結構なのだ。自分が好きなスポーツをやりつづけて、その才能が開花し、見ている大勢の人を励ましたり、勇気を与えたりできることに気が付いた。で、ますます頑張る気持ちになった。それは自発的な発達で、健全な自己実現だろう。

しかし外から押し付けられたものは、モチベーションとしては質が高くない。それはあるいは義務感から、あるいは権力に対する恐れから、やむなく「頑張らなくてはいけなく」なるだろう。技術が高く、高得点をたたき出すスケーターさんでも、「スケートが好き、スケートができてうれしい!」という輝くような喜びを表さなくなってしまったスケーターさんの演技は、見ていてもつらいものがある。

お願いだから、そんなアスリートをつくりださないようなオリンピック運営をしてもらいたい。

特にフィギュアスケートは、芸術性の高いスポーツである。選手ひとりひとりの精神的な健康や、バランスのとれた人格が、演技ににじみ出るのである。 プレッシャーをかけて追い詰めたり、無理な練習をして怪我をするようなことにならないよう願うばかりである。

もちろん、結果として日本人選手が一番高いところに立てば、私だって嬉しい。

だけれど、柔道でも暴力などのスキャンダルがあったように、あまりにも勝つことばかりに執着すると、なにか大切なものが見えなくなるような気がする。

勝たなくたって、真央ちゃんのソチのフリーは人々の記憶に長く長く残る素晴らしい演技だった。あれは「勝ち」をあきらめた彼女の、純粋な純粋な、心からの「演技」だったのではないか…。

どうか、外野は「信じて、選手に任せる」というスタンスをとっていてもらいたいのだ。 本来スポーツは、個人が心や体の健康を保つために生まれたものであって、国家同士の競争のために使われるべきではないのだから…。テニスでも、バスケットでも、一緒にプレーをすることによって、友好を深めてこそ、ソフトパワーとして役に立つのだ。

「勝ち」にあまりこだわらず、ひとりひとりのアスリートが無理をすることなく、自分の能力の最大をのびのびと出すことができたら。 そして、本人が「やり切った!」と思える良い演技をしてくれたなら、本来それで十分ではないだろうか。そしてそんな選手に我々は、感動をもらい、惜しみない拍手をおくるのである…。

(Souce: Jiji Press)