【作品#0744】DEATH NOTE デスノート(2006) | シネマーグチャンネル

【タイトル】

DEATH NOTE デスノート

【概要】

2006年の日本映画
上映時間は126分

【あらすじ】

ある日ノートを拾った夜神月は、ノートに書かれた名前の人が死ぬという説明文を信じていなかったが、ニュースで流れた犯罪者の名前を記載するとその犯罪者が死んだことでそのノートの力を思い知らされる。

【スタッフ】

監督は金子修介
音楽は川井憲次
撮影は高瀬比呂志

【キャスト】

藤原竜也(夜神月)
松山ケンイチ(L)
瀬戸朝香(南空ナオミ)
香椎由宇(秋野詩織)
細川茂樹(レイ)
戸田恵梨香(弥海砂)
満島ひかり(夜神粧裕)
鹿賀丈史(夜神総一郎)
藤村俊二(ワタリ)
中村獅童(リューク)※声の出演

【感想】

2003年から2006年まで週刊少年ジャンプに連載された大場つぐみの漫画「DEATH NOTE」の実写映画化。2006年に前後編の2部作として公開し、前編にあたる本作は28億円の大ヒットを記録した。

主人公はたまたま地面に落ちていたノートを家に持って帰る。そこでノートに書いてある「ノートに名前を書いたらその人物が死ぬ」というルールに「そんなわけないだろう」と笑い飛ばす。ただ、たまたまテレビで流れていたニュースを見て犯罪者の名前をノートに書くと、翌朝のニュースでその犯罪者が死んだことを知り主人公は驚く。ここまではサラっとこの映画内の説明をしているのだと思うし、それ以外の意図もないだろう。要するにスーパーヒーロー映画の亜流みたいなものだ。主人公がある日突然特殊な能力を得る。それがたまたま人の命を操れるノートだったというわけだ。

さらには、ノートの持ち主である死神のリュークが現れ、ノートを触った者だけがその姿を見ることができるという。死神という割には普通の人間みたいな性格をしており、主人公についてくる腰巾着程度の存在である。リュークが主人公に質問をして主人公がそれに答えることで状況を説明するという観客視点に立つ役割を担っているのだが、だとしたら観客が疑問に思うようなことは最初のうちに片づけておけば良かったはず。そうすればわざわざインサートを入れてその説明文を主人公に読ませる必要なんてなかった。

主人公は次々に犯罪者をデスノートに書き込んで処刑していき、それは社会現象にまでなっていく。キラが現れたことで犯罪の発生が激減したと何度も言いながら、結局新たな犯罪はいくつも起こっている。キラだと疑われた主人公は新たにデスノートに犯罪者の名前を書き込み、捜査側の目をかいくぐらなければならなくなる。そうなると、新たな犯罪が起こらないと話が進まなくなる。そして、犯罪の発生が激減したという観客向けの情報が嘘(あるいは嘘っぽく)になる。本作が抱えるこのジレンマは処理されないまま進んでいく。

世間にはキラのファンを公言する人たちもいることが描かれ(この描写の嘘くささもなかなか酷いが)、罪を犯せばキラに殺されるかもしれないという思いが犯罪を思いとどまらせたという意味合いだろう。ただ、犯罪の起こる現場での人間の感情なんてそう簡単なものではないだろう。キラのことなんか忘れるくらいに激高して人を殺してしまうかもしれない。キラに殺されようがとにかく自分が憎いと思っている人を殺してしまうかもしれない。そういった犯罪まで抑え込むのは無理だろう。それこそ、こういった人たちこそ精神鑑定の末に不起訴になったり短い刑期で釈放されたりしてしまう可能性はあるだろう。主人公の行いはそういった自分にしか裁けないと思うような犯罪、あるいは犯罪者を浮き彫りにすることでしかない。犯罪が減ったことで主人公が満足する描写もないし、ゼロにならないことで不満に感じる描写もない。

ただ、映画的には上述のようなところに考えは全く及んでおらず、主人公の振りかざす正義はやはり正しいとは思えない。どちらかというと、主人公の行いは中毒みたいなものに見える。本作ならびに続編は主人公に対して寄りそうことはないので主人公の気持ちを慮るのはやや難しいのだが、おそらく力を手に入れてその力を使わずにはいられなくなっている状態に見える(あくまで観客側が歩み寄って多分そうではないかと思える程度)。さらに主人公は自分の行いについて言い訳することも正当化することも徐々になくなっていく。

最終的に主人公は自分の愛する恋人までもデスノートに記載して殺してしまう。これに関しては完全に意味不明である。悩んですらいない。最初は犯罪者だけデスノートに記載して殺していた主人公が犯罪者ではない人にまで手を伸ばし恋人までも殺してしまうという流れは映画的に理解できる動線を敷いているわけではない(ように見える)。主人公が正義という名の殺しから抜け出せなくなっている状態になったと思える描写はない。自分が犯人であるという可能性があることを知りつつ、その可能性を潰していく過程を楽しんでいるようには見える。自分を捜査していたFBI捜査官が上司も含めて死んだとなればますます主人公が怪しくなっていくのだが、「しばらく殺しはやめよう」という苦悩もない。

とはいえ、冒頭には主人公が法による裁きの限界を感じて憤る場面が用意されている。つまりは、主人公が法による裁きを回避した悪人を裁きたいと感じる要素はあったわけだ。それが最初の頃の殺人の動機として捉えることはできる。ただ、映画の最後の方は上述の気持ちがあったようには思えない。また、主人公が法の限界を感じる描写があるのは良いが、その上で法曹界はどうあるべきか、司法試験に合格した主人公がどういったキャリアを歩みたいと感じているのか、世の中をどう変えたいのかなどの考えを示す場面はあっても良かったように思う。はっきり言って主人公の背景、行動は単純化、簡略化をしすぎだと思う。

後編で登場機会が増えるのはマスコミである。犯罪者の顔と名前が速報で報じられてしまうからこそ主人公がデスノートに名前を書き込むことができてしまうのだ。顔と名前がわかると殺しが行われると知っている捜査側は情報統制を敷くことは一切ない(せめてそうしようとしてダメだったとかそういう描写でも入れておけば良いのに)。マスコミが事件を報道することでキラが正義を下せばこれはマスコミが完全にアシストした形になってしまう。ただ、本作並びに続編で描かれるマスコミは視聴率至上主義に囚われた存在でしかない。

そして、捜査側はキラが犯行を行っている時間帯から大学生が犯人ではないかと疑っている。大学の授業中以外は暇なのかという話になってくる。しばらく友達と話すことだってあるだろうし、恋人と過ごす時間もあるだろう。この流れから大学生に絞っていくのは無理があるように見える。もし仮に授業中以外に殺しが集中しているのなら大学の先生だって可能性があるじゃないか。

観客にこの映画のルールを少しずつ説明していこうという意図は分からなくもないが、デスノートに細かい状況まで記すことができるなら割と早めの段階でそうするのではないかと思う。また、殺す相手の時間や状況まで操れるのなら主人公が大学の授業を受講している最中に殺すことだってできてしまう。キラの行動にしても捜査側の行動にしても、ツッコミどころが多すぎるのは残念。現実と地続きの世界観で描いているのだったら、せめて観客が真っ先に感じる疑問は早めに潰しておかないと雑音でしかない。こういったツッコミは入れたらキリがない。

結論、あまり好みの映画ではないのは確かだが、主人公が殺しという裁きを下し続けるには苦悩もなければ喜びもないように見えるところがかなり不思議な作品。もっと主人公の感情に観客を近づけるような作品にもできたとは思うが本作ではその選択を取らなかった。私的な裁きという名の殺人を繰り返して、その中毒から抜け出せなくなる主人公としても描かなかった。これは原作通りなのか、製作者側の判断なのかは分かりかねるが、21世紀に入ってからの安易なお涙頂戴映画よりかはよっぽど良い。

【関連作品】


「DEATH NOTE デスノート(2006)」…シリーズ1作目
DEATH NOTE デスノート the last name(2006)」…シリーズ2作目
「DEATH NOTE デスノート Light up the NEW world(2016)」…シリーズ3作目
L change the WorLd(2008)」…スピンオフ



取り上げた作品の一覧はこちら



【配信関連】
 

<Amazon Prime Video>

 

言語

├オリジナル(日本語)

 

【ソフト関連】

 

<BD>

 

言語

├オリジナル(日本語)

音声特典

├金子修介(監督)による音声解説

映像特典

├藤原竜也、戸田恵梨香のメッセージ映像