【作品#0691】私は告白する(1953) | シネマーグチャンネル

【タイトル】

私は告白する(原題:I Confess)

【概要】

1953年のアメリカ映画
上映時間は95分

【あらすじ】

神父のローガンは、ある夜に教会で働くオットー・ケラーから殺人を犯したとの告解を知らされる。翌朝から警察による捜査が始まり、犯行時刻に僧衣をまとった男が歩いていたとの目撃証言があり、ローガン神父に疑いがかかる。

【スタッフ】

監督はアルフレッド・ヒッチコック
音楽はディミトリ・ティオムキン
撮影はロバート・バークス

【キャスト】

モンゴメリー・クリフト(マイケル・ローガン神父)
アン・バクスター(ルース・グランドフォート)
カール・マルデン(ラルー警視)
O・E・ハッセ(オットー・ケラー)
ドリー・ハース(アルマ・ケラー)

【感想】

ポール・アンセルムが書いた1902年初演の戯曲「私たちの2つの良心」の映画化。

本作は主人公が神父であるため、カトリックであることが分かる。製作されたアメリカではプロテスタントの方が多数派だが、映画の舞台となったカナダではカトリックの方が多数派である。また、信者による告解の内容を神父が口外してはならないという規則があることは本作を鑑賞する上で必要な知識と言えよう。

本作の主人公ローガン神父に、知り合いで信者のオットー・ケラーが殺人を犯したと告解してくるところから映画は始まる。また、後にローガン神父にはかつて愛した女性ルースとの関係を知られたくないと考えていることも分かってくる。本作はあくまで神父が告解内容の守秘義務を守るかどうか、ひいてはカトリックへの信仰度合いを問われているような作品であると感じるのだが、ルースという女性の話が登場したことで彼女のことを傷つけたくないとか彼女との関係を知られたくないというのが主人公の行動原理になっているように見えてしまう。

また、神父に告解内容の守秘義務があったとして、その守秘義務を遵守したことで自分が無実の罪を着せられ、吊るし首にされても良いと主人公のローガン神父は本当に考えているのだろうか。そこまで信仰に篤い神父には見えなかったのだが、信仰心が篤ければこのようなことになるのだろうか。もしくは、ルースとの関係を後悔し、仮に有罪になったとしてもそれを懺悔として受け入れる用意があったのだろうか。ただ、ローガン神父とルースの関係やビレットを殴ったことはすべて神父になる前の話である。また、彼は戦争に従軍もしている。もしかしたらそこで人を殺していたかもしれないわけで、神父になる前の事と神父になってからの事をどう捉えているのかは描かれないが、単純に興味のあるところである。

そして、ローガン神父は警察の取り調べだけでなく、真実のみを話すことを誓う裁判でも守秘義務を遵守することになる。そのローガン神父が真実を語るように問われる際に、彼の向こうにはキリストの銅像がある。守秘義務を遵守することで嘘をつかなければならなくなってしまう。この矛盾に関して主人公がどう考えているのかは最後まで分からない。

裁判でローガン神父は守秘義務を貫き通して、陪審員による評決は無罪となったことで釈放される。ローガン神父が裁判所の外を出ると、多くの市民が待ち受けており、無罪と判断されたのにまるで犯罪者として見られるような視線を感じることになる。この辺りの残酷さはヒッチコックらしい。

ローガン神父が歩くと駆けつけた市民たちにもみくちゃにされ、それを見たオットーの妻アルマがローガン神父のところに歩み寄り、ローガン神父が真実であることを告げて許しを請うと、オットーがアルマを銃殺する。そこからオットーはホテルに逃げ込み、急に安っぽいサスペンス映画みたく展開していく。ローガン神父が真相を話すのではないかとずっと考えていたオットーは妻が裏切るとみてとんでもない暴走を始める。そんなことをしたら「ローガン神父は無罪です。犯人は私でした」と言わんばかりである。最終的に警官の撃った銃にオットーは倒れるが、それでもローガン神父は真相を話さずに映画は終わる。最後の最後までローガン神父は守秘義務を貫き通して映画が終わったのだから、おそらくこの後に警視から厳しい尋問を受けても話さなかったことだろう。にしても、オットーの頭が悪すぎて尻すぼみになってしまったので、もう少し良い結末を用意できなかったかな。

ところで、裁判の場面に話を戻すが、陪審が無罪判決を言い渡した後に裁判長は「陪審員の評決を認めるが、正義を考えると評決に不満を覚える」とはっきり言っている。裁判長がこんなことを言っても良いのかね。たとえ陪審員の評決を認めたとしても、「俺は認めていないからな」と言っているようなものだ。さらに、この裁判長の言う「正義」とは何なのか。情報があまりに小出しなのでさっぱり理解できない場面ではある。

それから、本作で一番弱いのはローガン神父と殺人を犯したオットー・ケラーの関係性である。オットー・ケラーは自身がドイツからの移民であり、このアメリカで弱い立場であることを理解している。ローガン神父に感謝をしながら謙虚に暮らしているようだが、強盗殺人を犯しているところに同情の余地はない。しかも、金を多少残して現場を立ち去っている。僧衣をまとって現場から立ち去り、強盗殺人ではないように仕向けていることからローガン神父に罪を着せようというのは見え見えである。なぜオットー・ケラーが恩人であるローガン神父に罪を着せようとしているのかも見えてこない。仮に目撃者がいなければ、仮に目撃者がいたとしてアリバイのない神父が多数いれば、ローガン神父にアリバイがあれば成立しなかった話でもある。この辺りももう少し納得感のある筋書きを用意できなかったものか。

また、警察による取り調べや裁判の過程はかなりいい加減に見えてしまう。僧衣を着た人が犯行のあった現場から出てきたからといって100%神父が犯人と決めつけること自体が間違っているだろう。案の定、犯人は僧衣を着た別人だったわけだし。さらには、神父が告解の守秘義務を遵守するというルールを知っているのなら、「もしかしたらローガン神父は守秘義務を遵守していて話せないのかもしれない」と考えるべきだろう。警察や弁護士、裁判長がその考えに至ることは全くない。ローガン神父の周囲の神父も登場はするのにまるで存在しないかの如く出番はない。

結局のところ、ローガン神父が何を考えているのかが非常に掴みづらく、犯人もなぜローガン神父に罪を着せようとしたのかも分からない。映画的には決まった結末に向けて気になりそうなことは極力触れずに進んでいくため、どうも物足りなさを感じたり、疑問が残ったりする作品になっていると感じる。こちらも世間の評価の高い作品だが、それほどの作品だとは感じず。




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映像特典

├ドキュメンタリー:ヒッチコックの告白

├カナダ:プレミア試写

├オリジナル劇場予告編