By - チャッピー加藤 公開:
話題のアスリートの隠された物語を探る「スポーツアナザーストーリー」。今回は、1月24日に訃報が伝えられたパ・リーグを代表するスラッガー・門田博光さんのエピソードを紹介する。
プロ野球オールスター第1戦 殿堂入りの表彰式に臨んだ門田博光氏=2006年7月21日
神宮球場 写真提供:産経新聞社
昨年(2022年)末の村田兆治さんに続き、往年のパ・リーグを代表する選手がまた
この世を去りました。南海・オリックス・ダイエーで活躍。王貞治さん、野村克也さんに次ぐNPB歴代3位の567本塁打を放った門田博光さんです。報道によると、1月24日の午前中、
門田さん宅を訪れた警察官によって倒れているところを発見され、その場で死亡が確認
されたとのこと。74歳でした。
2016年から人工透析を受けるなど、近年は体調が思わしくなかった門田さん。
そんななかでも、2019年には学生野球資格回復の特例研修(野球殿堂入りしたプロ経験者が
対象)に参加。高校・大学の指導資格を回復し、野球への情熱は失っていませんでした。
1つ残念なのは、あれだけの実績を残したスラッガーが、引退後、プロ球界でコーチを務める
機会に恵まれなかったことです。現役時代は我が道を行く性格で、野球にプラスにならない
ことは一切しなかった人でしたから、世渡り下手なところはありました。しかし門田さん
自身は、自分の技術を後進に伝えたかったはず。指導資格回復はその証拠で、直系の弟子を
プロ球界に残せなかったのは、さぞ心残りだったでしょう。
門田さんが現役を引退したのは1992年なので、もう31年も前になります。「通算本塁打数・
歴代3位」と聞いて「え、門田ってそんなに打ってたの?」という方もいらっしゃるでしょう。パ・リーグひと筋だったこともあり、その功績がちゃんと伝わっていない感がありますので、
その偉大さが伝わるエピソードをいくつかご紹介しましょう。
門田さんのプロ野球人生を語る上で切っても切り離せないのが、南海ホークス時代に
「監督×選手」の関係だった野村克也さんです。門田さんのプロ1年目は1970年。
この年は、野村さんが選手兼任で監督業を始めた年でもありました。
門田さんの大振りを諫め「ヒットの延長がホームランなんや」と説いた野村さん。
普通、野村さんほどの大打者にそう言われたら「そういうものなのか」と聞き入れるところ
ですが、「いや、でも監督だって打席に立ったらホームランを狙っているでしょう?」と
言い返して怒らせた話は有名です。言うことを聞かないなら使わないぞ……となるところ、
門田さんの才能を買っていた野村兼任監督は、さすが懐が広かった。やがて門田さんを
「4番・野村」の前を打つ3番打者に抜擢します。
ここでも「ホームランばかり狙わず、塁に出ることを考えろ」とクギを刺す野村さんに
「オレがホームランを打ったら自分の打点が減るから、そんなことを言うんでしょ」と
憎まれ口を叩いた門田さん。しかし、いくらムッとしても、野村さんは門田さんを
クリーンアップから外しませんでした。門田さんは不断の努力を重ね、やるべきことをやり、
結果を出していたからです。思うに、野村さんにとって当時の門田さんは「気難しく扱い
にくい選手をどうやる気にさせるか」を考える上で、格好の教材だったのではないでしょうか。生前よく「江夏(豊)、江本(孟紀)、門田は “南海の3悪人” や」と語っていた野村さん。
もちろんこれは愛情を込めた表現で、自分の野球観をしっかり持って、指揮官にも
言い返してくる門田さんのような選手が「監督・野村克也」を鍛えていったのです。
ところで、門田さんの年度別成績を見ていただければわかりますが、野村監督時代
(1970年~1977年)の門田さんは、決して「ホームランバッター」ではありませんでした。
この間のシーズン本塁打は、打点王になった2年目(1971年)の31本が最高で、年間10本~
20本台。当時は俊足で二塁打も多く、8シーズンで5回も打率3割台を記録しています。
どちらかというと「確実性があり、一発もある中距離ヒッター」のイメージでした。
転機になったのは、1979年の春季キャンプでアキレス腱を断裂したことです。
野球選手にとっては致命的なケガで、当時は復活した例も少なかったのですが、不屈の闘志で
驚異的な回復力を見せた門田さん。「これからは、足に負担が掛からない本塁打を狙おう」と
発想を変え、翌1980年からホームラン打者への転換を目指しました。
ただ言うは易しで、入団間もない若手ならともかく、1980年の時点で門田さんはすでに32歳。プロ11年目の選手でした。30歳を過ぎてから、打撃スタイルを根本的に変える、しかも
パワーヒッターへの転向は並大抵のことではありません。
そもそも、門田さんの身長は170センチと、野球選手としてはかなり小柄な方でした。
体格のハンディを打球の威力でカバーしようと、あえて重さ1キロの超重量バットを使い、
フルスイングしていた門田さん。このバットを振り抜くために、想像を超える猛トレーニングがあったことは言うまでもありません。一見、小肥りの体型に見えますが、ユニフォームを
脱げば「筋肉の塊だった」と当時のチームメイトが証言しています。
自分にハッパをかけるため、門田さんは背番号を10年間慣れ親しんだ「27」から「44」に
変更。外国人の長距離砲がよくつける番号であり「本塁打をシーズン44本打つ」という
覚悟を示したものでもありました。重いバットを振って振って振り抜いた門田さんは、
この年41本塁打を放ち、初の40本台を達成。翌1981年には、目標の背番号と同じ
44本塁打を放って、初のホームラン王を獲得します。
中距離打者として実績を残した選手が、30代から長距離砲への転換を成功させたのは
非常に稀な例であり、もっと讃えられるべき偉業だと思います。
もう1つ、忘れてはならない偉業は、40代になってからも本塁打を量産したことです。
トレーニング方法が発達し、選手寿命が延びたいまでこそ、40代の選手は珍しくなくなり
ましたが、門田さんが40歳を迎えた1988年はまだ昭和。40代で目覚ましい数字を残す
選手は稀でした。その40歳のシーズンに、門田さんは何と44本塁打、125打点をマークし、
2冠王に輝いたのです。さらに全試合出場(当時は130試合制)のおまけ付きでした。
打率もリーグ6位の3割1分1厘を記録。この年の首位打者はロッテ・高沢秀昭さんの3割2分7厘でしたので、もう少しヒットが出ていれば「40代3冠王」の大偉業も夢ではなかったのです。
この1988年、南海は5位だったにもかかわらず、門田さんはその功績を讃えられ、
史上最年長でパ・リーグMVPを受賞。「不惑の大砲」は世間の流行語にもなりました。
ただ、昭和最後のシーズンとなったこの年、親会社の南海電鉄はダイエーへの球団売却を
発表し、ホークスは福岡へ移転することに。門田さんは子どもの学校の関係もあり、
関西に残ることを希望。1989年からは阪急が身売りして誕生した新球団・オリックスへ
移籍し、ブーマーらと「ブルーサンダー打線」を形成しました。
オリックスでの2シーズン(1989年・1990年)で本塁打33本・31本を放ち、1991年からは
ダイエーに移籍。古巣のホークスで現役生活を終えた門田さん。最後の2シーズン
(1991年・1992年)は18本・7本と本数こそ減りましたが、当時門田さんは43歳~44歳。
それでこの本数は驚異的という他ありません。
ちなみに、門田さんが40代で放った本塁打は133本。「40歳の誕生日以降に放った本塁打数」のデータを見ると、3ケタの本塁打を放ったのは門田さんだけで、2位は金本知憲さん(広島・阪神)の80本ですから、いかに突出した数字かおわかりいただけるでしょう。
またオリックス時代の1990年には、42歳にして「2試合連続サヨナラ本塁打」という
パ・リーグ史上初の快挙も達成しています。1本目は満塁サヨナラ弾でした。
記録だけでなく、記憶にも残るプレーヤーだった門田さん。
私が大好きなエピソードは、これも1990年の話ですが、この年、近鉄の黄金ルーキーだった
野茂英雄さんとの対決です。「野茂から最初にホームランを打つ!」と宣言し、みごと
公約を果たしたときは「こんなカッコいい42歳がいるんだ」と感動したのを覚えています。
また、門田さんの現役最後の打席、ピッチャーは野茂さんでした。野茂さんは全球
ストレートで勝負。門田さんはフルスイングで立ち向かい、3球三振を喫しました。
最後に花を持たせてもらうことを拒否。野茂さんにあくまで真剣勝負を望んだのは、
実に門田さんらしい幕の引き方でした。
プレーで魅せるパ・リーグの野球を体現していたあなたのことは、決して忘れません。
門田さん、長い間ありがとうございました。ご冥福を祈ります。
野茂投手と門田さんとの対決で、門田さんが公約通りHRを打ち、
松坂投手とイチローとの対決では、三振を取ったと記憶しています。
いつの時代も、名勝負は観ていて感動しますね
福本豊さん、急死の元南海・門田博光さん悼む
「酒の量も、練習量もえげつなかった」
スポーツ報知 2023.1.24(火) 22:43
プロ野球歴代3位の通算567本塁打を記録し、南海、オリックスなどで活躍した
門田博光(かどた・ひろみつ)氏が死去していたことが24日、分かった。74歳だった。
かねて病気療養していたが、23日に予定されていた治療に現れず、病院から連絡を受けた
警察が自宅で倒れているのを発見した。アキレスけん断裂の大けがを克服して40歳で
プロ野球記録の44本塁打を放った左の大砲。44歳まで現役を続け、本塁打王3度、
打点王2度、歴代4位の通算2566安打をマークするなど輝かしい野球人生を、
スポーツ報知評論家で同学年の福本豊さんが悼んだ。
* * * *
打撃も性格も豪快な男やった。同学年で付き合いは長かった。現役時代は僕が阪急、
門田が南海でパ・リーグでしのぎを削った。オリックスではコーチと選手の関係になった。
大阪のABCラジオの専属解説者としてもコンビを組んだ。健康を損なってからは兵庫の
山奥に引っ込んでしまい、最後に会ったのは2019年6月のアマ指導の資格回復講習やった。
麻雀もよくやった。自分の手をさらして国士無双に向かい、周りがびびるのを楽しんでいた。「瓶に穴が空いているで」と店員を驚かせながら、雀荘のビールを全て飲んでしまった。
時効やから言うけど、野球の解説中もコーラのカップの中身はビールやった。
「飲みすぎやぞ」と叱ったこともあった。
酒の量も、練習量もえげつなかった。1キロのバットで鉛のボールを打っていた。
だからあの小さい体で王さん、野村さんに続く通算567本のホームランを打てた。
共通の知人によると、最近は片方の耳が遠く、自宅から病院に行く途中で車を何回か
ぶつけたこともあると聞く。闘病生活が長く大変やったと思う。
向こうの世界では体のことを気にせず、大好きなビールを思う存分に飲んでほしい。
(スポーツ報知評論家・福本 豊)
【悼む】門田博光死去に山田久志氏「兆治に続いて
カドやんまで」どこまでも駆け引きなし直球勝負
< 悼む >
長らく南海(現ソフトバンク)の主砲として活躍し、プロ野球史上3位の通算567本塁打を
放った門田博光(かどた・ひろみつ)氏が亡くなったことが24日、分かった。74歳だった。
◇ ◇ ◇
カドやん、寂しすぎるやないか。兆治(村田)に続いて、カドやんまで逝ってしまうなんて…。年は同じで、学年はカドやんが1つ上。プロの世界で同じ時代を生き抜いたライバルとして
無念でならない。
カドやんとの勝負はストレート一本やりだったよな。真っすぐ、真っすぐ…、
とにかくずっと真っすぐなんだから。とにかく全球ストレートなんだ。
2人の間には、変化球を打とうとか、変化球で抑えようなんて駆け引きはなかった。
今ではあんな勝負は見られない。でも両チームが固唾(かたず)をのんで見守ったし、
ファンもその対決を待望した。それほど見応えがあったのだろうし、そんな「エース」と
「4番」の真っ向勝負が許された時代でもあった。
またそんな勝負を挑みたくなるほどの大打者だった。身長は170センチと低いのに
スイングのスピードはケタ外れだったからね。簡単に打ちとることはできなかったが、
こちらも向かっていかなければいけないつらさがあった。
小さな大打者。練習で鉛のような重い球を打ったし、重いバットを振り込んだ。
打撃投手を前にして速い球を打った。アキレス腱(けん)を切っていたし、
血のでるような隠れた努力なくして、あそこまでのスイングスピードにはならなかった。
とにかくヒットでは納得しないんだから。「わしはホームランしか狙っていない」って
公言していた。だから監督だったノムさん(野村克也氏)ともめたんだろうね。
あの小さい体でホームランを打ったプロ中のプロだった。
それと1度は現場で指導者をやってほしかった。中日監督だったときに「ヤマを助けたいんだけどな」ともらされた。あのカドやんが打撃コーチをしていたら、もっと日本球界を代表する
長距離打者が生まれたかもしれない。今はただただ残念でならない。(日刊スポーツ評論家)
なぜ門田さんみたいな打者が、コーチや監督経験が無いのか不思議です。
何かが動いていて阻止していたんでしょう。みんな知っていたから・・・
門田博光が語っていた死生観。晩年15年間100回以上顔を合わせ、最後の通話者でもあったライターが明かす、レジェンドとの会話
プロ野球のキャンプがスタートし、WBC日本代表の話題にも楽しみが詰まる。
球春到来を感じる一方で、門田博光の訃報から1週間あまりが過ぎた。私のなかで、
球史に偉大な功績を残したスター選手がこの世を去った寂しさとはまた違う、
いつも身近にいた人を突然失ったつらさが日毎に増している。
おこがましくも "球界のレジェンド" を、いつからか歳の離れた友人のように感じるように
なっていた。あらためて数えてみると、この15年の間に門田と100回以上も顔を合わせ、
「ナンバーワン(王貞治氏)を超える選手を育てたい」という夢の話から、打撃の極意、
日常のぼやき、病、家族、酒、死生観......さらにはダイヤモンドを掘り当てたいという、
門田曰く "アホな話" まで、本当に多くの話を聞かせてもらった。
そんな門田の死は、胸の奥に重たい何かが流れ込んだまま、
まだ気持ちの整理をつけられずにいる。
1月24日、自宅で倒れているところを発見された門田博光氏
【 警察からの突然の電話 】
1月24日、朝の10時半を過ぎた頃だった。すでに締め切りが過ぎている原稿と格闘して
いると、携帯電話の着信音が鳴った。表示欄に名前はなかったが、市外局番の「0791」に、
すぐ相生(兵庫県相生市)からだとわかった。一瞬にして嫌な予感が走った。
門田博光に何かが起きた──病院からの電話か、それとも車の運転中に事故でも起こしたのか。激しい胸騒ぎのなか電話に出ると、1秒、2秒と間(ま)があいた。ひと呼吸して
名前を告げると、落ち着いた男性の声が返ってきた。
「こちら相生警察です」
警察......。「門田さんに何かありましたか?」
「突然のことで驚かれると思いますが、門田博光さんがお亡くなりになりました」
門田の携帯電話に残っていた最後の通話者が私だったため、連絡がきたということだった。
あとになって、門田が一足先に知らせてくれたのかという気にもなったが、
あまりにも突然のことで、言葉が出てこなかった。
すでに報道されているとおり、前日の透析に姿を見せなかったため、
病院から連絡を受けた警察が家で亡くなっている門田を発見したということだった。
呆然としたまま、いくつかの質問と状況説明を受けた。しばらくして電話を切ると、
今度は猛烈な悔いが込み上げ、気持ちが収まらなくなった。間に合わなかった......。
一介のライターと、球界のレジェンドとの緩やかな関わりが始まったのは2008年。レッド
ソックスの松坂大輔が、日本で行なわれたMLB開幕戦の開幕投手を務めた春のことだった。
出版社からの依頼を受け、プロ野球通算284勝の山田久志氏の読み物を執筆することになった。そこで現役時代に山田の好敵手だった門田の話を聞きたいと編集部にリクエストし、
取材が決まった。
門田が評論家の仕事を離れ、相生に居を移した頃だった。当初、門田となかなか連絡が
つかず苦戦したが、ようやく本人とつながり、相生駅前の喫茶店で落ち合うことになった。
取材の途中、何度か流れに沿わない質問や、こちらの物足りない反応に門田の表情が険しく
なり、場の空気が硬くなることはあった。しかし、有り体の言葉でなく、自身の言葉で語る
話は圧倒的に面白く、気がつけば3時間を超えていた。
門田はしゃべりたがっていた。関西で人気だった解説者時代の語りを聞いても、
本来はしゃべり好き。取材を終え「門田の話をもっと聞きたい」と思うと同時に、
「聞かなければならない」という使命感に駆られた。
以来、仕事をつくっては相生へ通い、気がつけば15年の歳月が経っていた。
【 繊細すぎる神経の持ち主 】
2013年の夏には、王貞治氏、野村克也氏と揃って登場したヤフオクドーム
(現・PayPayドーム)の試合イベントにもマネージャーのような立ち位置で同行した。
2015年の春は、当初渋っていた野村氏との対談が実現。ほかにも炎天下での高校野球観戦、
臨時コーチとして指導していた日本新薬の都市対抗予選の結果に一喜一憂したことも懐かしい。かつて大阪球場があった思い出の地・ミナミのイベントハウスで私が聞き手となってのトーク
ショーを開催したこともあった。コロナ禍のなか、緑豊かな自然公園でトンカツ弁当を食べ
ながら話を聞いたことも一度や二度ではなかった。さらには手術に付き添ったことも......。
現役時代に比べれば、性格が丸くなったのは間違いないだろう。
それでも門田は取材対象者として、気の抜けない人だった。
「『おはようさん』と『お疲れさん』と2つしか口にせんと帰っとったわ」
現役時代を振り返り、門田がよく口にするセリフだが、ひたすら己の技術を磨くことに
没頭した生粋の職人。同時に豪快なバッティングのイメージとは裏腹な、至極繊細な
神経の持ち主でもある。44歳でユニフォームを脱いだ瞬間から、その繊細さや頑なさが
社会での生き難さとなってついて回ったことは想像に難くない。
喫茶店での店員の対応に「なんでや」と首を傾げながら気分を害し、市役所の窓口での
説明に「もうええわ!」と手元の用紙を丸めたこともあった。医師が示した治療方針の
説明が腑に落ちず、「もっとチャレンジする治療法はないんか」とぼやくことも。
門田の言い分に筋が通っていると感じることは少なくなかったが、ほどほどの合わせる、
「こんなものだ」と流すことができない人だった。それだけいろんなものに引っかかって
いると「疲れるだろう」と何度も思ったが、だからこそプロの世界で567本もの
ホームランを打てたのだろうと妙に納得したものだ。
門田は取材者にも、常に本気を求めた。前回聞いたことを忘れ、同じ質問をすることを
最も嫌った。また取材中は絶対に時計を見ないようにしていた。知り合い始めの頃、
時間を確認するため壁にかかっていた時計に目をやったところ「忙しいんか? 撤収しよ」と、さっと顔色を変え、椅子から腰を浮かしたことがあったからだ。
相手の目や心の動きを見逃さず察する。まさに勝負師の本能を感じるものだった。
ほかにも、かかってきた電話にはどれだけ長くなってもこちらから切る空気は絶対に出さない。並んで歩く時は門田の左側、ビールはサッポロ......時には無理難題もあったが、
基本的に門田の提案、要望はイエスで応えた。
門田さんにも憑いていたけど、ライターさんにも憑いていたんですね
もうええわ!って、漫才師が最後終わる時に使うやつみたい。
他にも、人が言った言葉や行動を門田さんにさせたように思えます
【 門田が語っていた理想の最期 】
いつかの年の瀬。冷たい風が吹くなか、取材場所のホテルから近くの駅まで並んで
歩いていると、ふと門田が言ったことがあった。
「なんでやろな、あなたとしゃべっとったら不思議と腹が立たんのや」
「僕がたいしたことを言わないからですよ」とその時は軽く返したが、自称「どうしようも
ない照れ屋」からもらったこれ以上ないひと言。以来、門田への思いはより強くなった。
近年は、よく生死についての話になった。「俺ももうすぐや」が口癖であったが、
2日に一度の透析が日課になって8年あまり。体調は安定傾向にあった。
透析以前は歩いていると、突然「ぶっ倒れそうや」と言ってうずくまることもあったが、
ここ数年はそうした姿を見かけることはなかった。ただ、時折体調を崩すと
一気に不安が増し、 "最期" の話題になることがあった。
「どんな最期がいいですか?」。そんな問いに、門田は決まってこう返してきた。
「誰にも知られんとスッと逝きたい。それだけや。寝とってそのまま逝けたら最高やないか」
昨年11月、村田兆治氏が亡くなった直後に訪ねた時も、「兆治は苦しまんと逝けたん
かいな」と、最期を気にかけていた。「おそらく一酸化炭素中毒で意識を失い......」と
伝えると、「そうか、なら苦しまんと逝けたんかな」とやさしい口調で語った。
2020年に野村克也氏が亡くなった時もそうだった。一報が流れた翌日に訪ね、あらためて
思い出話を聞いた帰り道、並んで歩いていると「ところでおっさんはどこで逝ったんや?」
と呟くように聞いてきた。報道に出ていたとおり「風呂場で湯船に浸かっている時に......」
と伝えると、「そうか、気持ちよう逝けたんか」と安堵の表情を浮かべていた。
最後の取材は今年の1月12日。ある出版社からの依頼で、村田兆治氏との思い出話を
聞くことだった。本題の話を終えると、門田は注文したカキフライ定食を私よりも
早く食べ終えた。顔色はよく、言葉も強い。取材は3時間半を超えた。
途中から話は大きく脱線し、なにかの拍子で「この先、何かしたいことはありますか?」と
尋ねた。すると、少し考えた門田が「またアホみたいなことを言うてもええか」と断りを入れ、「朝から100万円握って競馬したいんや」と言って、楽しそうに笑った。
その後「久しぶりにようしゃべったわ」と言って、別れ際にいつものひと声をかけた。
本来の門田さんは、優しい人だったと思います。感情的になったり、ライターさんと
話していると不思議に腹が立ってくるのは、あの三女がそんな感情にさせたからです
【 望みどおりの人生の幕引き 】
「何かあったら連絡してください」
いつからか、取材が終わったあとや電話を切る際のお決まりのひと言になっていた。
基礎疾患を持つ高齢者のひとり暮らし。いつ何があってもおかしくない状況は続いていた。
この声かけをするようになって以降、時折、夜に電話がかかってくることがあった。
少々気が立っている時もあった。"アホな話" が広がり、ついていくのが大変な時もあった。
ある時の退院直後には、「なんやうまく立たれへんのや」と困った感じで連絡がくることも
あった。こちらは大阪にいるため、すぐに駆けつけることはできないが、
ひとまず気分が鎮まり、門田の話したいことがなくなるまでつき合った。
最後の取材から1週間あまりの間にも二度電話があった。どちらも昼の時間帯で、
二度目は発見される3日前。先の出版社から取材謝礼を受け取ったという報告だった。
「ありがとさん、それだけの電話や」
短いやりとりの最後にも、いつものひと言で電話を切った。その後、門田からの連絡はなく、
穏やかな日常を過ごしているのだと思っていたのだが......。
門田の携帯電話での最後の通話者が私で、ほかにかけた形跡はないという。
おそらく、最期は苦しむことなく、静かに息を引きとったのではないか。
もしそうだとすれば、常々の宣言どおり、見事な人生の幕引きだったと。
膨大な取材記録を一冊にまとめるという話が出たのは、もう7、8年も前だ。しかし
門田への興味が尽きず、まだ書き足りない、もっと知りたいと相生へ通い続けた結果、
今も完成には至っていない。書き手としては失格だろうが、この贅沢な時間を手放したくない、ふたりだけの話にとどめておきたい......そんな気持ちになったこともあった。
「ほんまに(本は)出るんか? もう俺に需要はないということやないんか」
門田からそう言われたことも何度かあった。それでもようやくゴールが見え始めた昨年、
まだまだ粗い段階だったが、前半部分の原稿を持参し、軽く目を通してもらった。
すると「あなたに任せる。見たこと、聞いたこと、思うように書いたらええ」と言われたあと、「ひととおりは最後までできてるんかいな」と聞かれた。「後半、とくに締めのところを
まだ考えているところです」と答えると、「なんでも最初と最後が肝心なんや。バッティングでも構えがスッと決まって、最後に腰がグッと回りきった時は......」と極意につながった。
しかし、山田氏との出会いから始まった物語の最後を、村田氏の話題で締めようと考えが
固まってきたところ、思いがけぬ形でラストが決まってしまった。
完成した原稿を読んでもらいたかった。いつもの場所でランチでも食べながら、
何事にも独自視点を持った批評家でもある門田の忌憚のない感想を聞きたかった。
だが、もうそれは叶わない。とにかく、あとは書いてまとめるのみだ。
ただ、ICレコーダーに入った3週間前の門田の声を、まだ聴き返す気持ちにはなれない。
気づけば、私にとって何よりの話し相手になっていた門田を失い、これからの時間を
どう過ごしていけばいいのか......。日が経つにつれ増してくる寂しさをまだ拭えずにいる。
純ちゃんが、ここ数年、急に足に力が入らなくてこけてしまうことが多いです。
私も最近、級に手に力が入らない時があるので初めビックリしましたが・・・
ここ数年、あの子から午前中~夜、深夜に電話がかかって来て毒舌なことを言ってくる
のは分かっていましたが、あんなに人を傷つけて( 剣でバッサリ人を切って来る )
ようなら、二度と連絡をしてこないでほしい。聞いていて嫌な気分になる
この記事を読んで、あの母娘の気持ちや感情をあの三女がいろんな人に持って行っているし、
尾崎豊に怪我をさせた人がライターさんにいった言葉に似ていますね。
野村元監督、村田兆治さんが亡くなった時の状況を聞いてみたり、
自分の時も苦しまずに亡くなりたいと言って孤独死で亡くなりましたが
孤独死といって思い出すのが飯島愛さん、鴈龍さん、島田陽子さんを思い出します
ご冥福をお祈りいたします。
プロフィール
谷上史朗(たにがみ・しろう)
1969年生まれ、大阪府出身。高校時代を長崎で過ごした元球児。イベント会社勤務を経て
30歳でライターに。『野球太郎』『ホームラン』(以上、廣済堂出版)などに寄稿。
著書に『マー君と7つの白球物語』(ぱる出版)、『一徹 智辯和歌山 高嶋仁甲子園最多勝監督の葛藤と決断』(インプレス)。共著に『異能の球人』(日刊スポーツ出版社)ほか多数。
伊勢物語絵巻六十段(花たちばなの香)
むかし、をとこありけり。宮仕へいそがしく、心もまめならざりけるほどの家刀自、 まめに思はむといふ人につきて、人の国へいにけり。この男、宇佐の使にていきけるに、 ある国の祇承の官人の妻にてなむあると聞きて、女あるじにかはらけとらせよ、さらずは 飲まじといひければ、かはらけとりていだしたりけるに、肴なりける橘をとりて、 さつき待つ花たちばなの香をかげばむかしの人の袖の香ぞする といひけるにぞ思ひいでて、尼になりて山に入りてぞありける。 (文の現代語訳) 昔、男があった。(その男が)宮仕えに忙しく、妻に愛情を注ぐこと薄かった時期に、 妻が、あなたを大切にしましょうと言い寄ってきた男について、他国へと行ってしまった。 この(もとの)男は、(後に)宇佐の使いとして(豊前へ)出かけて行ったが、その途上 (自分のもと妻が)、ある国の接待役人の妻になっていると聞いて、(その家で接待を 受けた時に)女主人に御酌をさせよ、でなければ飲まん、といったところ、(もと妻は) 盃を取って出したのだった。すると男は、肴にそえられた橘の実をとって、 五月になるのを待っている花たちばなの香りをかぐと、むかしの人の袖の匂いが漂ってきます と歌ったので、女は昔のことを思い出して辛くなり、尼になって山の中で暮らしたのだった。 (文の解説) ●まめ:誠実、●家刀自:家の主婦、●人の国:他人の国、他国、 ●宇佐の使:宇佐神宮への使い、皇室の重要な行事の際、朝廷から宇佐神宮に 幣帛をささげるために使わされた使者、 ●祇承の官人:朝廷からの使者をもてなす役人、●かはらけ:素焼きの杯、 ●飲まじ:飲まないつもりだ、「じ」は打消しの決意をあらわす助動詞、 ●肴:酒のつまみ、●橘:橘の実は蜜柑の一種、●思ひいでて:昔のことを思い出して (絵の解説) 宇佐の使者の求めに応じて、女主人が盃を差し出しているところ。 外に控えているのは使者の従者であろう (付記) 「さつき待つ」の歌は、古今集夏の部に載っている詠み人知らずの歌。古歌であろう。 その歌を聞かされた元妻が、眼の前にいる男とのかつての生活を思い出して、 心が苦しくなるというのは、いかにも心細い限りだ。ましてや、己のことを恥じて 出家するようでは、なんのためにこの男を捨てて、別の男について来たか、 わけがわからなくなるというものだ。 いつもありがとうございます。 最後までお読みいただき、ありがとうございました |