「全日本同和会」草創期の記憶
《 戦後史の死角がここにある 》 現代ビジネス 2023.02.08
講談社から2月9日に発売される骨太ノンフィクション『 同和のドン 上田藤兵衛
「人権」と「暴力」の戦後史 』は、ジャーナリスト伊藤博敏氏が、
上田氏の激しく蠱惑的なパーソナルヒストリーに迫る。
発売前から「何が書いてあるのか?」との問い合わせも数多い。
350ページ超えの重厚な本書には、自民党の歴代総理大臣経験者や経済人、
広域暴力団の親分衆の実名がこれでもかと躍る。マスメディアでは報じられない
アンダーグラウンドな戦後日本史に、読者は瞠目するはずだ(以下、文中敬称略)。
『 同和のドン 上田藤兵衞 「人権」と「暴力」の戦後史 』連載第2回後篇
連載第1回【独自】岸田文雄と写真におさまり、山口組五代目とも盟友だった
「同和のドン」上田藤兵衛が初めて口を開いたを読む
秋田犬に刺身包丁で報復
記事の前篇に引き続き、上田藤兵衞が有名になる前の前半生を紹介しよう。
上田藤兵衞が身を置いた部落解放団体「全日本同和会」は、1960年5月に佐藤栄作
首相の肝煎りで設立された。佐藤首相から口説かれ、初代会長を引き受けたのは柳井政雄だ。柳井は山口県の被差別部落に生まれ、かつて任侠の世界に身を置いていた。
〈 柳井政雄は、1908(明治41)年、山口県吉敷郡に生まれた。
父は牛馬商を営んでおり、政雄は四男だったこともあり、高等小学校を中退すると、兄を頼って京都に出て、料理屋で住み込みの小僧となる。
京都では、早くも「無頼の萌芽」を見せている。世話をしていたシェパードが、
向かいの洋品店で飼っている秋田犬とケンカになった。シェパードが噛まれて
深い傷を負うと、店に飛び込み刺身包丁を握りしめ、秋田犬に “報復” した。
店には居づらくなり、かといって家には帰れない。体ひとつあれば働ける山口県の宇部炭鉱に流れ、そこで働くようになる。気の荒い炭鉱に無頼の血が合ったのか、やがて暴力団の世界に入り、背中に桜吹雪の入れ墨を入れて配下を率いるようになった。小月(おづき)競馬場(下関市)に乗り込み、抗争相手の馬を日本刀で叩き切った
ときは、地元紙に大きく報じられたという。
(略)
24歳で出所する際、30台もの車の出迎えを受けながら、「ごくろうさん。俺は、
今日限り、足を洗う」と宣言して山口市に戻った。1932(昭和7)年のことである。
(略)
1946年10月、山口市小郡大正町に金物、日用雑貨などを商う小郡商事をオープン
する。同社の繊維・洋服部門を任せたのは、戦地から戻ってきた弟だった。〉
(『同和のドン』114〜115ページ)
ゴロツキの不良を束ねる人材派遣業
柳井政雄が、後に首相となる佐藤栄作氏の肝煎りで「全日本同和会」を立ち上げた
ころ、上田藤兵衞はまだ本格的に部落解放運動にのめりこんではいなかった。
生活は荒れ果てていた。
〈「20歳で少年院を出て、最初にやったのは人材派遣です。昔、ウチの会社(若藤)に出入りしていた建設会社の社長さんが、市内で住宅開発をやっていて、
そこにぶらぶらしている不良を20人ほど送り込みました。人夫出しです。
その頃は、山科では少しは知られた存在で、周りにいろんな連中が集まってきた。
それらにまとめて仕事を与える。カネ儲けになるし仲間も食えるし、一緒に遊べる。でも、周りが放っとかない。『あいつら生意気や』というんで、他の不良グループや暴力団とケンカになることもありました」
旧大石内蔵助邸部材を使った上田家の玄関
仲間同士のイザコザも絶えない。また、許しがたい罪を犯す人間もいた。
上田グループの新入りが、女性を輪姦した事件があった。女性の親に対処を求められた際は、本人に言い含めたうえで処罰のリンチ。それでコトを収めるつもりだったが、その男が警察に被害届を出したため、「体を躱(かわ)す( 山科を出る )」
ことを余儀なくされた。そうした生活に疲れていたこともあろう。
上田は、しばらく東京に居を定めることにした。
「京都におられんようになったんは事実やけど、環境を変えたいというのも
あったし、東京で一旗あげたいという思いもあった。仕事はなんぼでもある。
まともに経歴なんか聞かない時代です。百科事典のセールスをやりつつ、
水道管工事の現場にも出ました。結構、稼いだんですよ。
人と話をするのは好きやし、肉体労働も苦にならなかった。
でも、やっぱり東京では流れ者です。本名は名乗らず、上田に原をつけて
『上田原』にしたりね(笑)。用事で京都に戻るとき、大津からトンネルを抜けて
山科に出ると、『ああ、俺は、何してんのやろ』『 山科から逃げてどないするんや 』という思いにかられた。それで、山科に戻ったんです」〉
(『同和のドン』120〜121ページ)
ヤクザの動脈に突き刺さった小刀
頭山満の玄洋社に魅力を感じた上田藤兵衞は、玄洋社関西のOBに面会して
「玄洋社京都」を結成しようと構想する。そんなころ、ヤクザ者との抗争に
巻きこまれて刑務所にブチこまれてしまうのだ。
〈 上田グループのメンバーが、飲食店でのいざこざから本チャン(現役)の暴力団に拉致されたことがある。救出のために、上田は仲間と組事務所に押しかけるが、
「ヤクザの出入り」として通報され、出動した京都府警に凶器準備集合罪で
逮捕された。トランクのなかに日本刀が入っていたからだ。その後、保釈されたものの、長い公判の末、1973年の年初、上田は懲役10月の実刑判決を受け、同年8月から山科の京都刑務所で服役することになった。有罪判決は刀剣所有者の上田のみだった。他のメンバーは無罪だったから、リーダーとしての面目は果たしたことになる。
1974年5月に出所した。早朝にもかかわらず、山科の友人知人が300人も出迎えて
くれ、「地元の温かさ」を実感した。〉(『同和のドン』126〜127ページ )
京都刑務所から出所すると、地元の京都・山科は不穏な空気に包まれていた。
兄貴分である林成夫の縄張り(二代目中島会会長・図越利一のシマ)に他のヤクザ
組織が侵入し、喫茶店や麻雀店を開き、賭場まで開帳していたのだ。兄貴分の林成夫が拉致されたと聞いた上田藤兵衞は、本職のヤクザがひしめく麻雀店に乗りこむ。
〈「(幹部に)話をしても高飛車にものをいうて、話にならんのです。あるとき、
林社長が麻雀店で軟禁状態にあると聞いて、ここは俺しかおらへん。裸になって話さにゃしゃあないと思うて、住んでいた近くのアパートから麻雀店に行ったんです」
このとき、上田はヤクザ相手だからと、刃渡り5センチの小刀を腰に差していった。「なんか落ち着くものが欲しかった」というのだが、それが結果的に未必の故意での殺人罪を形成し、懲役6年の実刑判決につながった。
「麻雀屋は11時で終わるんやけど、私は10時頃から店に行って、テレビを見ていたんですわ。11時過ぎても、店を閉めようと誰もいわん。緊張感のある異様な空気の
なかで、5分か10分経って、私は社長に『帰りましょう』というたんです。
『うん、うん』と、返事があったんやけど、(幹部が)バーンと、立ち上がって
『コラ、どこ来てものいうとんねん!』と怒鳴った。それでこっちも、
『なんじゃ!』と、怒鳴り返した。すると、配下が5人ばかりいたんですが、
(幹部が)彼らに『殺してまえ!』という声と同時に、みんなで襲いかかって
きたんです」麻雀台が空間を防ぎ、いっせいに飛びかかれないのが上田に幸いした。が、木刀で殴られた上田は、思わず小刀を抜いて、幹部の懐に飛び込んだ。
これが運悪く、動脈に突き刺さって血が噴き出した。みんな腰を抜かすなか
「タカちゃん、後はやるから早く行け!」という林の声で我に返り、
店を飛び出したという。〉(『同和のドン』126〜128ページ)
懲役6年の判決を食らった上田は、神戸刑務所にブチこまれる。
ここで思わぬ出会いがあった。山口組系山健組内健竜会会長・渡辺芳則との邂逅だ。
刑務所で出会った当時、渡辺芳則はまだ三次団体の組長にすぎなかった。渡辺は
その後、二代目山健組組長、山口組若頭、さらには五代目山口組組長に就任する。
渡辺との邂逅は、ヤクザと同和運動の関係性にエポックメイキングな化学反応を
もたらすことになる。
【 大石蔵之介 】
祖父大石良欽の跡を継いで若くして家老となる。
1701年(元禄14年)3月14日に主君の赤穂藩主浅野長矩(内匠頭)が江戸城内に
おいて高家吉良義央(上野介)に遺恨ありとして殿中刃傷に及ぶも討ち漏らして
即日切腹、赤穂藩は改易となった。一方義央には何の咎めもなかった。
赤穂城明け渡しをめぐって浅野家中では開城、切腹、抵抗など議論があったが、
最終的には良雄が家中の意見をまとめ、藩札や藩の借金の処置にも努め、
4月19日に城を受城使脇坂安照に引き渡した。
その後山城国山科に移住。この時期には長矩の弟浅野長広(大学)による浅野家
再興を働きかけつつ、それが叶わなかった時には主君長矩の恥辱をそそぐため
義央を討つ計画を進めていたと見られる。1702年(元禄15年)7月に長広の
浅野本家預けが決まったことでお家再興の望みは消え、同月に良雄は京都円山に
同志を集めて「吉良邸討入り」の意志を確認した。
その後江戸へ下向。47人の赤穂浪士を率いて同年12月14日から15日に両国の向かいにあった本所一ツ目の吉良邸へ討ち入り、武林隆重が吉良を斬殺、義央の首級を
あげて泉岳寺の長矩の墓前に供えた。その後赤穂浪士は幕府の命により4家の
大名家に分けてのお預かりとなり、良雄は熊本藩主細川綱利に預けられた。
翌1703年(元禄16年)2月4日に切腹となった。遺骸は高輪泉岳寺の長矩の墓の
そばに葬られた。
この事件は竹田出雲の「仮名手本忠臣蔵」などの浄瑠璃や歌舞伎によって劇化されてから国民的関心を集めた。1912年(大正元年)には兵庫県赤穂市に大石良雄以下
四十七士を主神とする大石神社が竣工すると、浪士たちは「義士」とたたえられた。
討ち入り
御家再興は絶望的となったのを受けて、7月28日、良雄は堀部武庸なども呼んで
円山会議を開催し、吉良義央を討つことを決定した。また8月には貝賀友信(蔵奉行10両2石3人扶持)、大高忠雄らに神文返し(盟約の誓紙=神文の返還)を実施し、
死にたくない者は脱盟するようそれとなく促した。このときに奥野定良・進藤俊式・小山良師・岡本重之・長沢六郎右衛門・灰方藤兵衛・多川九左衛門ら、お家再興優先派が続々と脱盟していった。一方、なお盟約に残った同志たちは次々と江戸へ下向
していった。9月19日には大石良金が山科を発ち、さらに10月7日には良雄自身も
垣見五郎兵衛と名乗って江戸へ下向した。『忠臣蔵』を題材にした物語では、
「道中で本物の垣見五郎兵衛が出現して良雄と会見、五郎兵衛は良雄たちを吉良義央を討たんとする赤穂浪士と察して、自分が偽物だと詫びる」という挿話が入るが、
これは創作である。また大石は、城前寺にて曽我兄弟の墓を叩いて壊し、
墓石の破片をお守りとして携帯した。
墓を叩いて壊したのを読んで、女子高校生コンクリート事件の犯人の一人である、
少年Bの母親が被害者のお墓を壊したことを思い出しました
良雄は10月26日には川崎平間村で、赤穂藩邸の有機肥料を買っていた豪農・軽部五兵衛宅に滞在して、ここから同志達に第一訓令を発した。さらに11月5日に良雄一行は江戸に入り、日本橋近くの石町三丁目の小山屋に住居を定めると、同志に吉良邸を
探索させ、吉良邸絵図面を入手した。また吉良義央在邸確実の日を知る必要もあり、12月14日に吉良邸で茶会がある情報を入手させた。良雄は確かな情報と判断し、
討ち入りは同日夜と決する。11月29日には瑤泉院の化粧料六百両余を、自身が消費
した理由を書いた書状を落合勝信に届けさせた。大石は長矩の切腹後、
瑤泉院に会うことは無く、書状での機嫌伺いすらしていない。
討ち入りの大義名分を記した口上書を作成し、12月2日、頼母子講を装って深川八幡の茶屋で全ての同志達を集結させた。これが最終会議となる。討ち入り時の綱領「人々心覚」が定められ、その中で武器、装束、所持品、合言葉、吉良の首の処置
など事細かに定め、さらに「吉良の首を取った者も庭の見張りの者も亡君への
御奉公では同一。よって自分の役割に異議を唱えない」ことを定めた。
12月15日未明。47人の赤穂浪士は本所吉良屋敷に討ち入った。表門は良雄が大将と
なり、裏門は嫡男大石良金が大将となる。2時間近くの激闘の末に、吉良義央が小屋
から撃って出た処を、武林隆重が斬殺した。間光興が首級を取って良雄たち赤穂浪士一行は引き上げたが、奥平家と酒井家により鉄砲洲の旧赤穂藩邸には寄れず、織田家や伊達家に通行を阻まれつつも迂回して浅野長矩の墓がある泉岳寺へ引き揚げた。
寺で大石は酒を求め皆で飲んだり、義士たちは粥を食べて上杉家と津軽家の襲撃に
備えたあと、吉良義央の首級を亡き主君の墓前に供えて仇討ちを報告した。
私も自分の役割りが終わり、全部解決し韓国へ行き占い師の母に報告したいです
四大名家お預かり
良雄は、吉田兼亮・富森正因の2名を大目付・仙石久尚の邸宅へ送り、
口上書を提出して幕府の裁定に委ねた。午後6時頃、幕府から徒目付の
石川弥一右衛門、市野新八郎、松永小八郎の3人が泉岳寺へ派遣されてきた。
良雄らは彼らの指示に従って仙石久尚の屋敷へ移動した。
幕府は赤穂浪士を4つの大名家に分けてお預けとし、良雄は肥後熊本藩主細川綱利の
屋敷に預けられ、世話役に堀内伝右衛門が充てられた。
長男良金は松平定直の屋敷に預けられたため、この時が息子との今生の別れとなる。なお、堀内は無神経な成り上がり者であったため、大石らは夜中に狂言踊りで
騒いだり、堀内が様子を見に来た所を、酒をたらふく飲ませて酩酊させたり、
玄米といわし料理を出せと注文して困らせたりした。
最期
元禄16年(1703年)2月4日、4大名家に切腹の命令がもたらされる。同日、幕府は
吉良家当主・吉良義周(吉良義央の養子)の領地没収と信州配流の処分を決めた。
細川邸に派遣された使者は、良雄と面識がある幕府目付・荒木政羽であり「徒党を
組み押し入る始末、重々不届きにつき切腹を申し付ける」という上意を義士たちに
伝えた。顔見知りのせいか『赤穂鍾秀記』では、大石がこの命令書に畏れ入らずに
異議を唱えて云返をしたとある。
「義士は堀内のような一代で士分になった出来星でなく、身分のある上
士に介錯させるべし」との細川綱利の意向により、良雄は細川譜代家臣・安場久幸の介錯で切腹した。
『江赤見聞記』では大石の介錯を仕損じ、大声を出したので首を二度斬りをしたと
あるが、細川家の記録(『堀内覚書』)には「かなりの時間がかかった」とあるだけで具体的な経緯は確認できない。 しかし、安場家に伝わる介錯刀は刃こぼれがあり、前当主で全国義士会連合会の会長を務めた安場保雅は「大石の首骨に何度も当たり、斬り落としに苦労した跡である」と記している。
上田藤兵衛は、1974年5月に出所したばかりなのに、麻雀店に乗り込み、
幹部に話しても「高飛車にものを言って話しにならんのです」と
「タカちゃん、後はやるから早く行け!」の林の声で我に返った。
この2つは、あの姉妹が憑依していたから
あの子も、あの母親に似ていて、高飛車にものを言ってくる
6年の懲役で思わぬ出会いがあった。明日から渡辺組長のことをupします
本当に人の迷惑行為禁止。人の後ろに憑かない、憑依しない
嫉妬や執着をしないで、仕事で使う技術を絶対にプライべートで使わないで
思考低下をさせないで、乗り物を運転している時は邪魔をしないで、目の錯覚
いつもありがとうございます。
最後までお読みいただき、ありがとうございました