イトマン事件とを引き起こした闇社会の住人たち
2023.02.07 現代ビジネス
伊藤 博敏 ジャーナリスト
『 同和のドン 上田藤兵衞 「人権」と「暴力」の戦後史 』連載第1回後篇
東京佐川急便事件につながる点と線
前回の連載《【独自】岸田文雄と写真におさまり、山口組五代目とも盟友だった
同和のドン」上田藤兵衛が初めて口を開いた 》で、上田藤兵衞が尾崎清光という
ゴロツキから暴行を受け、ロープで簀巻(すま)きにされて拉致された
エピソードをご紹介した。
「エセ同和」尾崎清光と「地上げの帝王」早坂太吉、そして住吉会最高顧問の
浜本政吉が蠢く「プリンスホテル事件」が、イトマン事件や東京佐川急便事件、
そして山一抗争につながるとは、当時は誰も知る由もなかった──。
〈1982年10月、東京・虎ノ門にある建て替え前のホテルオークラ5階の和風レスト
ラン「山里」に6人の男たちが集まった。ある物件の売却話が大筋でまとまり、
固い話は抜きのなごやかな昼食会だった。
メンバーは、右翼団体主宰者の豊田一夫、平和相互銀行監査役の伊坂重昭、
伊坂の社外秘書役的役割の対馬邦雄、会津小鉄会幹部の高坂貞夫、
大阪市に本社を置く不動産業・広洋社長の岸広文、および岸の関係者。
ある物件とは、神戸市北区八多町(はたちょう)屏風にある土地のこと。後に事件化し、「屏風の土地」と呼ばれた。平和相銀の子会社・太平洋クラブがゴルフ場用地として取得していたものの、開発のメドがつかないため、売却先を探していた。
伊坂の意を受けた対馬は、こうした難しい物件(土地は市街化調整区域内)の
処理に長けた豊田に相談し、豊田は面識のある京都の高坂に依頼した。
その高坂が連れてきた買い手が岸である。
話はトントン拍子に進み、昼食会を経て、11月に契約が交わされる。太平洋クラブ
から広洋と、その関係のサン・グリーン(尼崎市)への売却価格は約60億円だった。この売買に際し、平和相銀が売却代金をはるかに上回る約116億円を融資していた
として、東京地検特捜部は’86年7月、平和相銀の伊坂ら「4人組」と呼ばれていた
経営陣を逮捕した。〉(『同和のドン』40〜41ページ)
「竹下5億円、佐藤3億円、伊坂1億円」
1979年6月、平和相互銀行創業者の小宮山英蔵が死去した。すると監査役の
伊坂重昭ら「4人組」は、経営陣から小宮山家を追い出し、「4人組」によって
平和相互銀行を乗っ取ってしまおうとクーデターを画策する。
〈それ【※平和相互銀行「4人組」によるクーデター】を阻止しようとした小宮山家は、33%の持ち株を、旧川崎財閥の資産管理会社・川崎定徳(ていとく)の佐藤茂
社長に譲渡する。その資金を提供したのが住友銀行系商事会社のイトマンだった。
同社の河村良彦社長は、住友銀行の「天皇」といわれた磯田一郎会長に引き立て
られ、旧制商業高校卒ながら常務に出世、業績不振のイトマンに送り込まれて社長になっていた。「向こう傷を恐れるな」という強気の経営で知られる磯田は、103店舗を持つ平和相銀を傘下に収めることで、東京への本格進出を果たしたかった。
33%もの株を佐藤に握られて、伊坂は焦る。佐藤に会談を申し込み、
何度も話し合いを重ねるが、佐藤は「小宮山家の意向を尊重したい」と、
にべもない。そこに救世主として現れたのが八重洲画廊の真部(まなべ)俊生
(としなり)で、伊坂にこう申し入れた。
「私が所有している金屏風(蒔絵(まきえ)時代絵巻)を40億円で買ってくれれば、佐藤さんからの株の買い戻しに協力しましょう」
そして、背広のポケットから手帳を取り出し、〈 竹下5億円、佐藤3億円、伊坂1億円 〉と書かれたメモ書きを見せ、こう付け加えたという。
「株はキレイ事では戻ってきません。こういうカネの処理は私がうまくやります」〉(『同和のドン』42ページ)
この記事を読んで韓国映画の「 パラサイト 半地下の家族 」を思い出しました。
あの人が結婚しようとすると、必らず邪魔をして破局させられてきました。
そして破局した後に、その隙間を埋めるかのように入って来たのがあの子
(あの子は、彼氏をそうやって何人もしてきた )
あの子が人の弱みに付け込んで無理難題を言い、全部叶えてきたのが分かりました。 本社移転やTVやラジオ、ネット、人、全部にお願をして協力してもらっていた
屏風で思い出したのが、明菜さんとマッチの会見。
本当は、あの会見、マッチが言っていた通り会見に出る予定ではなかった。
あの三女が、マッチに「明菜ちゃんみたいになりたくなければ会見に出ろ!」と
脅し、出ざるをえなかった
出る前にジャニーズさんとメリーさんに「マッチ、今、出たらダメ~!」と
言われたのを思い出しました
あの会見で明菜さんは、本当のことが言えなくて嘘を言ってました。
あの姉妹が明菜さんをマッチの自宅で自殺をさせた。( 凄いパワーと感情で )
マッチに最初に見つけてほしいなんて、絶対に明菜さんは言わない
そして、占い師の母から「あなたが元気なることが、みんなが喜ぶことなんだから、あなたが一日も早く元気になることが、みんなの恩返しなんだから、
頑張りさない!」と占い師の母に言われていました
もし、あの時、マッチがあの会見に出席しなかったら、
また違った展開があったと思います。占い師の母が「運命の人は純ちゃん3人、
私が1人いる」と聞いていました
そして、私は、自分の幸せにを全部、相手に渡したと言われました
( 明菜さんと私は、似ていると言われました。前世、仲が良かった記憶がお互いに )
あの三女が明菜さんとマッチ2人の後ろに憑き、自分の言わせたい言葉を
本人たちに言わせていた
明菜さんと私も、あの親子の感情や体調不良をもってこられ、無気力感や
ネガティブ、凄いプレッシャーも感じました
明菜さんと北野武さんと宮沢りえ、後藤ジョッキー、その他の人にも自殺願望を
株と聞いて、2008年6月のサザンが解散するという噂が流れ、アミューズの株が
2400円から800円くらいまで下がった記憶があります。( TVで勝谷さんが言って
ました )暴落するくらいサザンの解散説は大きかった~
結局、ファンにサザンの屋号を預けると言って休止宣言をしました
あの姉妹に、あの親子に人の幸せを奪われたのは確かです
「竹下登の裏ガネ」を揉み消した「闇社会の守護神」
政治家への裏ガネ工作のため、芸術品の売買を装って煙幕を張る手法が興味深い。
絵画の売買によって、どうやって億単位の裏ガネをこしらえるのか。
『同和のドン』で明かされる、赤裸々な裏ガネ作りの手法を紹介しよう。
〈 当時、絵画を利用した政治献金が、“裏献金”として流行っていた。
絵画には定価がなく、売り手と買い手の合意で決まる。そこに政界に通じた画商が
介在する。例えば、売り手が10億円で仕入れた絵画を買い手が20億円で買う。
“浮いた” 10億円を、政治家を含む関係者で分けるのである。
(中略)
当時、特捜検事として捜査した田中森一(もりかず)は、退官後、弁護士となるが、石橋産業事件という特捜案件で逮捕され、服役の後、『反転』(幻冬舎)という
半ば “贖罪(しょくざい)”の自伝を著した。田中は、30万部のベストセラーと
なった『 反転 』のなかで、内幕を赤裸々に語っている。
〈〔1986年7月の伊坂ら逮捕の後〕いつ、政界に切り込んでいくのか、現場の検事たちは期待で胸が膨らんだ。東京拘置所で取り調べを担当する検事同士で、捜査の方向がどこに向かうのか、話していた。やはり注目されていたのは「青木メモ」である。(中略)
そんなとき、ある同僚検事からこう耳打ちされたのである。
「実はこのあいだ、部長に呼ばれてね。あのメモのことは忘れろ、と言うんだ」〉
言葉通り、「竹下5億円」を捜査することはなかった。竹下とは、当時、蔵相を務めていた竹下登のこと。そして「青木メモ」とは、真部が伊坂に見せた分配メモのことで、竹下の秘書である青木伊平が作成したとされていた。4人組逮捕の1ヵ月後、
検察は捜査終了を宣言。その2ヵ月後の’86年10月、平和相銀は住友銀行に
吸収合併された。
田中は、〈 俺たちは、まるで住銀のために捜査をしてきたみたいだな 〉という
同僚検事の言葉を紹介、〈かくいう私もそのひとりだ〉と打ち明けている。〉
(『同和のドン』42〜44ページ)
この時、部長かその上に圧力がかかったに違いないと思った
暗躍した稲川会二代目・石井進会長
刑務所から出所した稲川会二代目の石井進会長は、東京佐川急便の渡辺広康社長に「これからはカタギとして仕事をしたい」と申し出る。渡辺の全面的な後ろ盾に
よって設立された「稲川会経済部」が、日本経済を裏側から動かしていくのだ。
〈平和相銀事件の後処理に関与したのが、稲川会二代目会長・石井進である。
稲川会は、住吉会と並ぶ関東の広域暴力団で、初代・稲川聖城(せいじょう)が
熱海に創立、東京はもちろん神奈川、静岡方面に強い。その二代目会長の石井が
平和相銀に関与したのは、川崎定徳の佐藤茂との関係によるもので、その結果、
石井の事業は膨らみ、東京佐川急便事件に連動する。
(中略)
4900億円もの莫大なカネを東京佐川急便から流出させた大型経済事件の幕開けは、’84年暮れ、東京・築地の料亭での二人の男の会談だった。長身、白髪で、
おだやかな表情のなかにも目に鋭さのある男は石井進。もうひとりの丸顔で髪を
オールバックにした物腰の柔らかい男は、東京佐川急便の渡辺広康社長である。賭博行為等で6年間服役、出所したばかりの石井を、旧知の渡辺がねぎらう宴席だった。
(中略)
「本当にカタギの仕事をやりたいんですね」
暴力団の看板、つまり “力” を使わずに事業をするつもりなのかと聞いたのである。
「もちろんです」
石井は短くこう答えたという。
渡辺の決断は早かった。年が明けて間もない’85年2月、東京佐川の全面的な
支援のもと、マスコミから後に、「稲川会経済部」と呼ばれる北祥産業が、
東京都千代田区に設立された。〉(『同和のドン』46〜47ページ)
「褒め殺し」に悩める竹下登
〈 東京佐川が、北祥産業を始めとする稲川会系企業に保証した資金総額は、
渡辺元社長が特別背任容疑で逮捕される’92年2月までに約1000億円に達していた。
稲川会系企業だけでなく、早乙女潤元常務が実権を握っていた早乙女系企業、
渡辺の社外側近といわれた松沢泰生の平和堂グループ系、その他企業群も合わせて、東京佐川の融資保証額は4900億円に達していた。
野放図な融資保証は、東京佐川の「実利」でもあった。融資保証の際、最大10%の
キックバックがもたらされるわけで、それが佐川急便の政界工作の原資になった。
融資保証が打ち出の小槌となって、東京佐川から正常な経理感覚を奪った。〉
(『同和のドン』48〜ページ)
東京佐川急便の渡辺広康社長は、バブル最盛期の1980年代終わりに「政」と「暴」をつなぐ接着剤の役割を果たした。佐川の渡辺社長が前出の石井進(稲川会二代目
会長)と連携し、「竹下登・自民党総裁誕生」を脅かす右翼団体をピタリと
黙らせたのだ。
〈’87年夏、5年の長きにわたった中曽根政権が交代の時期を迎え、安倍晋太郎、
竹下登、宮沢喜一の「安・竹・宮」の三人が争っていた最中、竹下にとっては、
まことにありがたくない“援軍”が四国から上京した。日本皇民党という右翼団体で、「竹下新総裁を実現しよう!」と、街宣車でがなり立てた。
褒めて評判を落とす「褒め殺し」である。
皇民党を率いるのは稲本虎翁(とらおう)。憂慮した竹下は、収拾にあたろうと
したが誰を立ててもうまくいかない。そこに登場したのが石井だった。
金丸が渡辺に相談すると、渡辺が事業パートナーとなっていた石井を頼った。
この種のモメごとでは “顔” がものをいう。
その直前、山口組と一和会の「山一抗争」の終結に力を発揮した稲川会二代目会長・石井の名は、暴力団社会に鳴り響いていた。石井の登場に、皇民党はピタリと
矛を収めた。〉(『同和のドン』49ページ)