加山雄三 母の死、ホテル倒産、20億円の借金・・・再起を誓う | poohta8のブログ

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加山雄三に作詞家・岩谷時子が贈った言葉

『 ラストダンスは私に 岩谷時子物語 』( 光文社 )

 村岡恵理 2019/08/06

 

 越路吹雪のマネージャーをつとめながら、歌謡曲の黄金時代を担う

大ヒット作詞家として、加山雄三やザ・ピーナッツらに歌詞を提供した岩谷時子。

そんな彼女の人生を、関係者への詳細な取材や本人が所有していた貴重な資料を

もとにあきらかにした評伝『 ラストダンスは私に 』が発売されました。

同書の第8章「伝説のステージ」より、1970年の「 越路吹雪ロングリサイタル 」

以降に起きたエピソードを特別公開します。

 

◆◆◆ 

 

 ロングリサイタルの最中の5月12日、加山雄三の母、小桜葉子が、時子より2つ年下の52歳という若さで亡くなった。数年前、スキーの際に怪我をして、片方の腎臓を

失ったことによる腎臓障害のために、子宮癌の発見が遅れたとのことだった。

 

 小桜は戦前、松竹から子役デビューし、映画界きっての二枚目俳優上原謙と結婚、

1男1女をもうけた。若大将シリーズが大ブレイクした60年代に、独自の美容と

健康法、小桜式整美体操を考案して日本全国に教室を広めた。

息子と並んでいても、姉弟にしか見えない母子だった。

「とりあえず近親者のみで密葬をするそうです。僕は行きますが岩谷さんはどうなさいますか?」東芝レコードのプロデューサー、渋谷森久が言った。前任の名和が会社を辞めてから、渋谷が越路と加山の担当になった。また、その優れた音響センスを

浅利に買われ、越路のリサイタルや四季の公演でも音響調整を任されていた。

加山雄三と岩谷時子

加山雄三と岩谷時子

 

 「行きます、渋谷さん、私を連れてって」

時子は渋谷とともにタクシーで茅ヶ崎の加山の家に向かった。

自宅での密葬だというのに、到着した時には、取材陣が既に放列をなしていた。

仕事先から戻ってきた加山は、ぎりぎりで出棺には間に合った。涙で人前に立てない喪主の父親に代わって挨拶を述べ、その間、彼に向かって一斉に無情なフラッシュが焚かれた。加山は片隅にいる時子に気づき、歩み寄った。

「岩谷先生、お忙しい中、母のためにわざわざお越しくださって本当に

ありがとうございました。生前はいろいろとご厄介になりました」

 時子はかける言葉がみつからなかった。

 

「芸能人って可哀想ね」 帰りの車の中で時子はつぶやいた。

「僕は生まれ変わっても芸能人にはなりたくありませんね」

「これで万が一、ホテルが倒産したら、マスコミはもっと大騒ぎするのかしら」

越路吹雪の自宅マンションで打ち合わせ

越路吹雪の自宅マンションで打ち合わせ

 

 彼の身を案ずるのは、最愛の母を失った哀しみの上に、もうひとつ別の不幸が

重なっているからだった。少し前から、加山雄三のホテルとして知られる茅ヶ崎の

パシフィック・パーク・ホテルが、巨額の負債を抱えて倒産する、という噂が

囁かれていた。「格好のネタにされるでしょうね。経営は小桜さんの弟の岩倉具憲氏らしいですね。でも世間では加山さんのホテルで通ってますからね」

「彼には負債はかかってくるの?」

「結局、あの家の稼ぎ頭は加山さんですからね。彼が一生かけて働いて返すことに

なるんでしょう……、でも、20億なんて金、いくら加山雄三だって一生かかっても

返せないですよ。若大将シリーズだって、もう一時の勢いはないし」

「渋ちゃん、加山さんのことで何か聞いたら必ず私に

教えて。もし私にできることがあったら協力するから何でも言ってね」

「わかりました」 時子は渋谷と約束を交わした。

浅利慶太、越路吹雪、内藤法美らと打ち合わせ

浅利慶太、越路吹雪、内藤法美らと打ち合わせ

 

 それから2ヶ月ほど経ってから、時子は渋谷から、加山の新アルバムのための

デモ・テープを受け取った。「 え……、2週間で15曲?」思わず聞き返した。

全盛期に作った『 ハワイの休日 』でも3週間で12曲だった。

渋谷によると、既に茅ヶ崎の加山の自宅も6千万円で抵当に入り、今月末には

いよいよ葉山のパシフィックホテルの倒産が明るみに出るという。

加山は一家の稼ぎ手として、一生かけて借金を返していく覚悟を決めている。

ただ、発表後、マスコミや債務者からの集中砲火を想定して、それを一時的にでも

逃れるために、1ヶ月半ほどアメリカに避難する計画を立てていた。

その出発前にレコーディングを済ませなければならなかった。

「加山さんのスケジュールの都合でレコーディングは7月25日です。

彼は生きて行くために仕事をしなければなりません。僕らにできることはこれしか

ないと思うんです。岩谷さん、お願いします」 渋谷は拝むように手を合わせた。

 

「そうよね、わかってる。やるわ」とは言うものの、時子は1年前あたりから

ひどい頭痛やめまいに悩まされていた。恐らく今年54歳という年齢で、

いわゆる典型的な更年期障害の症状だった。

集中力と気力も以前のようには続かず、仕事が思うように運ばない。 

日生劇場のロビーで越路吹雪、劇場スタッフと

日生劇場のロビーで越路吹雪、劇場スタッフと

 

 その上、75歳になった母に、物忘れなどの認知症の症状が表れ始め、

食事や洗濯、掃除など、家事の負担が時子にかかるようになっていた。

家事を手伝ってくれる人を頼みたいと思っても、母が、「家事なんて

人に頼むほどのものではない」と言い張り、家に他人が入るのを嫌がった。

 

 幸い越路はリサイタルの地方公演中だったが、もう一方には、植木等のテレビ・

ドラマの挿入歌、ピンキーとキラーズの新曲などの仕事も抱えていた。

「今は事情をお話できないんですけど、実はのっぴきならないことが起こって

しまって……。本当にご迷惑をおかけして申し訳ありません。

少し〆切を少し延ばして頂くことはできませんでしょうか」

「わかりました。大丈夫ですよ。いつも岩谷さんには僕の方がさんざん

ご迷惑をかけてますから。プロデューサーにはボクの方からうまく言っておきます」

 

 こういう時に宮川泰やいずみたくとの、長年のコンビの有難さがつくづく

身に沁みる。日頃の信用がものを言って、担当者も皆、寛大だった。

 加山のデモ・テープからは追いつめられて作った苦しい心境が伝わって来た。 

東宝文芸部にて

東宝文芸部にて

 

 いきあたりばったりのものには、こちらもいきあたりばったりでかかるしかなく、できたものから渋谷に手渡した。

「ありがとうございます。編曲の森岡さんも苦悶しています」

 

 残り4曲となったところで、ついに言葉はひとつも浮かばなくなった。渋谷があれ

これと曲のテーマや設定を提案して助け舟を出してはくれても、借り物のアイディアではなかなかまとまらなかった。睡眠不足から酷い肩こりと頭痛に襲われ、

おまけに奥歯の被せものまで外れたが、歯医者に行く時間もなかった。

ほとんどノイローゼに陥った時子に対して、母は少しの同情も無く、絶対的な自分の時計で、毎夕、6時になると支度をして外食に連れ出してもらうのを待っていた。

母がおんぶお化けに見える。

 

 最後の1曲を残して、LP盤『 愛はいつまでも 』レコーディングの朝を迎えた。

加山は前日、若大将シリーズ第16作目となる『 俺の空だぜ! 若大将 』の

アフレコで喉を痛めて声を嗄らしていた。録音は予定通り午前中から開始され、

夜中近くに及び、3曲が翌日に持ち越された。

 

 時子は帰宅後、朝4時までかかって最後の1曲を仕上げた。

綱渡りのようなその場その場のやり方で、それでもなんとか形になっていくのは、

5年間、多くの曲を一緒に作ってきたチームワークの成せる業である。

2日目は正午近くにスタジオ入りし、16時にレコーディングは終了した。

加山は、その日の23時発のパンナムでアメリカに発つことになっていた。

加山雄三とのレコーディング。渡辺美佐の顔も見える

加山雄三とのレコーディング。渡辺美佐の顔も見える

 

 「皆さん、このご恩は一生忘れません」「いつ帰ってくるんだい?」

「1ヶ月半で必ず帰って来ます。僕は絶対に逃げませんから」

「わかってるわ。身体には気をつけてね」

「はい。ありがとうございます。ひとつラスベガスで稼いできますよ!」

加山は冗談を言って、皆を笑わせた。

数日後、ホテルが23億円の負債を抱えて倒産したことが発表されると、テレビの

ワイドショーや週刊誌は、ホテル経営がいかにずさんだったかを解説し、華やかな

芸能一家の転落劇をことさら大きく扱った。夏じゅう、その話題で持ちきりで、

良い時には持ち上げて、いざとなれば突き落とす残酷な人間の性というものを、

時子はまざまざと見せつけられた思いだった。

 

 9月の半ば、約束通り帰国した加山は、傍らに新妻を伴っていた。

若大将シリーズで共演した女優の松本めぐみと現地で落ち合い、

再起を誓って、ロスでささやかな挙式を挙げたのだった。

空港には100人近い報道陣が詰めかけていた。赤坂プリンスホテルで、

初めて記者会見が開かれ、加山には厳しい詰問が浴びせられた。

騒ぎの最中の渡航に、無責任だというヤジは飛んでも、誰ひとりとして、

結婚を祝福する言葉をかける者はいなかった。

 

越路吹雪、音楽学校の仲間とともに

越路吹雪、音楽学校の仲間とともに

 

 1週間後、加山本人から連絡があり、時子は帝国ホテルの17階のレインボー

ラウンジで待ち合せ、新婦を紹介された。「ご心配をおかけしました。

これから何年かかるかわからないけど、ふたりで頑張って行きます」

「おめでとう。大変だったと思うけど、ふたりとも元気そうでよかったわ」

「あの『追いつめられて』という歌の、岩谷さんの歌詞の、全くその通りに

なったんですよ」 時子はそう言われて自分が書いた詞を思い起こした。

 

 追いつめられて お前とふたり  
 知らない街を 歩いている
 (略)
 追いつめられて お前とふたり
 風に向かい歩いてゆく

 

「アメリカのローンバインっていう街をふたりで歩きながら、

やっぱり岩谷さんには予知能力がある。天才だと思いました」

 

 新婦から時子は記念に美しい真珠のブローチを受け取り、時子はふたりに、

気持ちばかりの結婚祝いと、色紙に認めた祝福の言葉を贈った。

 

「嵐が去った朝 どんな風にも負けなかった 
小鳥の巣が 光の枝に 残されていた

   昭和四十五年九月 愛をこめて時子」

写真提供=岩谷時子音楽文化振興財団

 

 

小桜葉子さんが体調を崩し始めてから、パシフィック・ホテルの経営が

悪くなっていったとウィキペディアで読んだことがあります プンプン おばあちゃん パンチ!パンチ! 星

 

加山さんのスケジュールの都合で、1970年7月25日になると。

この28年後の7月25日に和歌山毒カレー事件が起きたのを思い出しましたムキーおばあちゃん パンチ!パンチ!

 

 54歳で更年期障害になられた岩谷時子さん、凄い頭痛やめまいに悩まされ、

集中力や無力感が以前のように続かない中、よくあんな大量な仕事をこなしたと

感心しましたが、その陰には信頼できる仲間が支えてくれていたのが分かりました。

やっぱり、日ごろの言動行動が信用になり、お互いに信頼関係を築けて行ったんですね。だから、お互い様で助け合ってこれたのが分かりました。

 

私は、更年期障害はなかってのですが肩こりや、頭痛、無気力になりましたムキーパンチ!パンチ!パンチ!

多分、同じだと思います。ノイローゼも2019年~ 影響を受けていたんだと思います 

 

分かります、おんぶお化け=当時、TVアニメのおんぶをよく観ていました。

おんぶ(お化け)の性格は、天邪鬼だったのを思い出しました プンプン パンチ!

 

おじいちゃんもデイケアの人に対して、初め警戒していたと聞きました。

以前は、そんなおじいちゃんではなかったのに・・・ プンプン パンチ!パンチ!

 

ライティングの武中さんが急に「アイデアが浮かばない!」と言っていたことを

思い出しました。岩谷さんと同じですね。私もされたので分かります 物申す パンチ!パンチ!

 

5年間一緒に仕事をしていたので意思疎通ができていて、言わなくても先を見越して

岩谷さんがしてほしいことをやってくれ存在だったんですね、本当にありがたい お願い

 

加山さんがラスベカスで一発当てて借金返済(一攫千金)を狙っていた? パンチ!パンチ!パンチ!

 

マスコミからバッシングを受けた。良い時には人を持ち上げて、悪くなると

人を突き落とす。そういう人間の性は、あまり見たくはないですね 汗うさぎ おばあちゃん パンチ!パンチ!パンチ! 

 

加山夫妻は、岩谷さんから結婚祝いとしてもらった祝福の言葉が掛かれた色紙、

今でも大切に宝物として、どこかに飾っているんですか?

私も、やしきたかじんさんから貰ったサイン色紙を大切に宝物として飾っています笑ううさぎ

 

昨日も書きましたが、加山雄三さん夫妻、これからも家族仲良く幸せに、

ゆっくり暮らしてほしいです。今まで、出来なかったこともして下さい 笑ううさぎ おばあちゃん 虹

 

 

あまり変わらないので省きます ムキー 爆弾 パンチ!パンチ!パンチ! むかっ

 

いつもありがとうございます。

 

最後までお読みいただき、ありがとうございました 愛飛び出すハート