山田邦子、レギュラー番組が週14本から相次ぎ終了で先輩女性から | poohta8のブログ

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「お前はもうだめだ、死ね」と言われた過去、

人気急落のレッテルを貼られて   2023/5/17  週刊女性PRIME

 

山田邦子さん

山田邦子さん    【写真】キュートすぎる山田邦子さんのデビュー時代

 

 今、お笑いの世界は大きく変化しつつある。女性芸人が多数登場し、

女性が自らのアイデアで人を笑わせる、新しい時代となった。

「女は笑いに向いてない」と言われた時代から、女性が人を笑わせる

自由を手に入れるまで。フロンティアたちの軌跡と本音を描く。

レギュラー番組が週14本で女性タレントのトップに

 山田邦子さんの第3回。29歳のときに始めた、初の冠番組『 邦ちゃんのやまだ

かつてないテレビ 』が成功し、好感度ナンバーワンも獲得。テレビの世界で、

いわゆる「天下を取った」状態となる。しかし責任は増し、眠る暇もない。

そして、人気番組は突然終了となり─。激動の30代の裏側に何があったのか。

 

 1989年『 邦ちゃんのやまだかつてないテレビ 』は開始

邦子さんは、若くして名前のついた冠番組を持つことになり、

視聴率にも責任を負わなければいけない重い立場になった。

通称『 やまかつ 』のコンセプトは “おもちゃ箱をひっくり返したような番組”。

得意のものまねのほかにも、ドラマ仕立てのコントなど。バンドを結成して

オリジナル曲も作り、バラエティーに富んだ内容が毎週繰り広げられた。

「私がいろんなものまねをして、ひと画面に多数の人物として登場するという

映像をよく作ってたんですけど。今ならCGを使って簡単に分身を作れますが、

当時は何回も撮影して、それを重ねていくという方法しかなくて。これがとにかく

時間がかかる。もちろん、他のコーナーの撮影や打ち合わせもありますから。

 

 撮影終了が30時で、次の日の撮影は朝6時から、なんてスケジュールの時も

ありました。いつ寝るのって感じですよね。ただ、スタッフさんはもっと寝てない

ですから。頑張るしかない。いい作品を作ろうと、みっちり時間をかけて

一緒に仕事していただいたことには、今振り返っても感謝しかないですね

テレビ局で寝泊まりするほど、番組作りに没頭した。そのおかげで、『やまかつ』は明るく楽しめる番組になり、高い人気を獲得。邦子さん自身も、NHKが行っていた「好きなタレント調査」で、’88年の女性トップに。レギュラー番組が週14本にも

なり、テレビで見ない日はないほどの売れっ子タレントになっていった。

「スケジュール的なことも大変でしたけど、前にやったものより、もっと面白いものを作らなきゃとハードルがどんどん上がっていくのがキツかった。ウケるのは嬉しいけど、ウケた自分を絶えず越えていかなきゃいけない。何か面白いことはないか、

どうやったら面白くなるか、ずっと考えるのが癖のようになってました。

協力してくれる人はいても、常に孤独でしたね」

『 やまかつ 』からはヒット曲も多数生まれ、武道館でコンサートも成功させた。

しかし’92年、人気が高い状態のまま番組は突然終了してしまう。

「番組に貢献してくれた人を、プロデューサーがさくっと切って降板させちゃう。

そのことが引っかかりました。大江千里さんが音楽協力してくれたから番組が始まったのに、KANちゃんの『 愛は勝つ 』がヒットしたら、千ちゃんを切ってしまった。

 

 千ちゃんは後で事情をわかってくれたけど、一瞬私のことが嫌いになった

みたいで、辛かった。そして次は、大事MANブラザーズバンドがヒットしたら、

KANちゃんを切っちゃう。次、また次と繰り返されて、私は『 もうこれは

続けられない 』と思ったんです」

 

「やまかつ」も観ていましたが、人気が高い状態のまま番組は突然終了したのか?

チェッカーズも突然、解散すると発表したのが1992年だったのは、だぶん、

尾崎豊さんが同年4月25日に、亡くなったのが影響されているんでしょムキーおばあちゃん パンチ!パンチ!星

 

冠番組終了後に手のひらを返す人も

『やまかつ』から誕生したユニット「やまかつWink」は瞬く間に人気に

『 やまかつ 』から誕生したユニット「やまかつWink」は瞬く間に人気に

【写真】キュートすぎる山田邦子さんのデビュー時代

 

 プロデューサーと話し合ったが意見は分かれてしまい、邦子さんは番組開始からずっと協力してくれていた俳優の渡辺徹さんと元体操選手の森末慎二さんに相談した。

ふたりとも “オレたちもこの状況をずっと我慢してたんだ” と言ってくれて。“ごめんね、気がつかなくて” と謝って、番組をやめることを決めました。楽しい番組を作ってるのに、陰で悲しんでる人がいるんじゃダメですね。私の責任だと感じました

 

 好きなタレント調査での女性1位は1996年まで続き、翌年は6位となった。

それでもすごいことだが、“人気急落” とマスコミでは取り沙汰された。

『 山田邦子のしあわせにしてよ 』『 邦子がタッチ 』が同時期に終了。

冠番組がなくなり、以来テレビ出演数はかなり減った。

手のひらを返す人もいましたよ。わざわざ私のところにきて、『 お前はもう

ダメだ、死ね 』と言って帰った女性の先輩もいます。でもね、私ばかりが

番組に出ているのも、好感度1位が8年連続というのも異常ですよね。

 

 寂しいなとは思いましたけど、ブームのような状態が終わるのは仕方がない。

私は学生時代けっこう成績が良くて100点とることが多かったんですけど、

そうするとたまに95点だと、ひどくダメだったと言われる。そういうのは、

わりと慣れていたんです」仕事が減ったことも、スケジュールに余裕が出たと

ポジティブに考えた。運転免許を取ったり、念願だった舞台の座長公演も行ったり。新しいことに積極的に取り組んだ。「人気のことより、身近な問題がキツかったですね。私に大きなお金が入ってくるようになって、母が “家族がいちばん安全だから” と言って、私が20代半ばぐらいの時に会社を設立してお金の運用を始めたんですよ。

それで、知らない間に、土地やビルを買って投資をしていた。勉強はしたみたい

ですけど、しょせん素人の運用ですからね。おかげで、私は休みなく働いて

けっこう稼いでいるはずなのに、自分が欲しいものが全然買えない。

 

 仕事に関しても、母たちから “ギャラの高いCMの仕事だけやればいいのに” なんて口も出される。気がつけば、会社に出入りする人は増え、借金の額がすごいことに

なっていた。母が “お前がデビューしなければ、こんなことにならなかった” とか

言い出して、それが苦しくて、苦しくて……。

とにかく一度全部清算させてくれと頼んで、会社を解散してもらいました。30代半ばのころだったかな。結局その後4〜5年かけて借金を返してさっぱりしました。

お金の流れがはっきり見えるようになりましたからね。でも、あの時、素人の

身内よりプロに運用を頼んでいれば、今ごろ大金持ちだったでしょうね」

 

39歳の時に、番組制作会社を経営する男性と結婚した。

「ちょうど2000年になる時でした。このまま40歳になるのもなぁ、と思うように

なって。たまたま身近にニヤッと笑ってた人がいたんで、これはいい “物件” かと

思って結婚したんです。でもね、それから3年ぐらいたってからわかった、

私、結婚に向いてない(笑)。

 

 家事は大好きなんですが、どうやら私は誰かのためじゃなくて、自分のために

やりたいだけなんですね。別れるきっかけもなく、そのままいますけど。

私が外泊しても、私の友達や後輩が何人も家に来て、騒いで泊まっていっても、

何にも文句言わないので、そのまま続いてるのかもしれないですね。

うちは最初から財布も別々だし、お互いにいくら稼いでいるかも知りません」

 

『 お前はもうダメだ、死ね 』と言って帰った女性の先輩もいます。=海原千里万里で活躍していた姉妹で漫才師の上沼恵美子さんが結婚するために、引退するので、

ある先輩(正司歌江さん)から、嫌味を言われたとTV(3時にあいましょう)番組の袖で言われたと言ってました。(本意じゃなく、言わされたんです)プンプン おばあちゃん パンチ!パンチ!

 

養子の申し込みもするも審査が通らず

 結局、邦子さんは子どもを持つ人生を選ばなかった。

若い時から、もらいっ子をしようか考えたことはありました。

女は普通に子どもを育てるもんだと思ってたんで。世界のどこの国の子でも

いいからと養子をとる申し込みをしたんですけど、審査が通りませんでした。

でも、思い悩んだことはないですね。

 

 仕事も途切れなくあって、タイミングを逃しました。まぁ、私のまわりには

後輩たちがウジャウジャいて、早く育ってほしいなぁと願いながら、

ご飯食べさせたり、面倒を見たりしているので、これでいいと思います(笑)」

激動の30代を駆け抜けて、2000年に結婚し40代に突入。

新しいワークバランスで過ごす中、46歳のときに乳がんが見つかった─。

 

構成・文/伊藤愛子●いとう・あいこ 人物取材を専門としてきたライター。

お笑い関係の執筆も多く、生で見たライブは1000を超える。

著書は『ダウンタウンの理由。』など

 

 

89歳の母を見送ったばかりの山田邦子、サービス付き

高齢者向け住宅に「もっと早く入居させておけば良かった」と実感、弁護士に相談し遺言を公正証書として残す

2024/1/2 週刊女性PRIME

 

 '23年10月に母を亡くした邦子さん。「渡辺徹さんや笑福亭笑瓶さん、KANさん

との別れも。ここ最近はさよならを言うことが多いよね」自宅には手すりをつけ、

エンディングノートに大切なことを書き込むなど、自身の老いや終活にも思いを

はせる日々だという―。

体重は17kgも減り、痩せ細ってわずか28kgに

 10月18日に長い介護の末、母・昭子さんを看取ったばかり山田邦子さん。

「先日、兄と弟、私の3兄弟が集まって、納骨してきたのよ。そのお墓には

約20年前に急死した父が入ってるんだけど今思えば、母が墓を決めて

役所の手続きもしてくれた。今回は当然、その母がいないわけ。

8歳下の弟は『 お母さんがいないとわからないよ~ 』なんてオロオロして(笑)」

 

 亡くなる少し前から昏睡状態だった昭子さん。邦子さんがロケから戻り、

羽田空港に着いたタイミングでほっとしたように息を引き取った。

弟が『 姉やんが羽田着いたよ 』って耳元で言ったそうなんです。

亡くなった後、弟は大号泣。私も悲しくないわけがないですし、後悔がまったく

ないわけではないですが、母はもう十分によく頑張ってましたから。

その生きざまで最期までたくさんのことを教えてくれました

 

昭子さん84歳当時。若いころは似ていないと思っていたが、年をとるとだんだん母とそっくりになってきた

昭子さん84歳当時。若いころは似ていないと思っていたが、

年をとるとだんだん母とそっくりになってきた

 

 昭子さんが弱ってきたのは5年くらい前のことだった。

同居する弟が母の面倒を見てくれていたんですが、2人とも体調を崩したことを

黙っていたんです。ケガをしたあと動かなくなったのがよくなかったのかも

 昭子さんの体重は17kgも減り、痩せ細ってわずか28kgになっていた。

「以前から、母の生前整理を私が手伝っていたんです。まだ母が意思表示できる

うちに化粧品やアクセサリーの一つひとつまで『いる・いらない』の仕分けを

することができたのは良かったです」

 

もともと余計なモノを持たない性分だったことも幸いした。しかし、介護が必要に

なった時どうしたいか、葬儀の仕方などの母の意思はわかっていなかったという。

生きる目標を持てなくなって母は「死にたい」と

「弟は母の回復を信じていて24時間つきっきりで一生懸命、世話をしていたけど

素人ではうまくいかなくて。私もできる限り通って、出すぎて垂れてしまう

母の唾液をストローで吸ってあげたり、口の中に手を入れて拭いてあげたり。

家族だけではもう限界。生きる目標を持てなくなって母は私に『死にたい』って

言うこともあったので、これはプロに頼らなくてはと、介護認定を受けさせたん

だけど介護士にケアをしてもらうと、家族全員の調子が戻った。

「母の体重がみるみる増えてきたんです。おしゃれだった母もちょっと小汚く

なってたのが、介護のプロの手が入ったとたん、すごくきれいになったの。

やっぱりケアマネさんに相談して正解でした」

 

 要介護2から5へと上がった際は、回復を信じた弟の意向もあって、

リハビリができる病院に母を入れたが、「意思疎通もできなかったし、

もうそこまで頑張れる状態ではなかった」と話す。終のすみかとなったのは、

サービス付き高齢者向け住宅。環境も整っていて、医療と介護のプロがいて

素晴らしかったですね。私が死ぬときはココに入りたいと思うぐらい(笑)。

もちろん本人の好みもあると思うから一度、見学に行って決めるべきですよ。

もっと早く母を入居させてあげれば、穏やかに過ごせたのかな……。

まあ介護に正解はないと思うけどね」

 

 短大生時代 “面白い素人” としてテレビで頭角を現した邦子さん。実は中高短大

一貫のお嬢様学校出身でテレビ出演するなどとんでもないという環境だった。

父のすすめで建設会社に就職も決まっており、父親は猛反対。

デビュー後1年ぐらいは口もききませんでした

しかし、小学6年の娘に、「おまえは目つきが悪いから」と整形を進めた母は違った。

母はいつも自由で遠慮がなくて(笑)。目つきの悪さで私が将来、苦労すると

思ったみたい。母は私と違って美人だったから、仕事なんてする必要がなかった人。若いころはモデルとして雑誌の表紙になったり、会社の受付嬢になって

すぐ結婚して……。それでも本人は働きたかったのかも。

『 やってみなさい、女は度胸よ! 』と応援してくれました」

母が亡くなるまでの姿を見て、準備の大事さを痛感

 また、昭子さんは文化服装学院卒業の腕を活かし、娘の華やかなステージ衣装を

魔法のように縫い上げた。邦子さんも裁縫は得意だが、母の足元にも及ばない

のだとか。加えて、娘の収入を「ほかの人に任せると心配だわ」と言い出し、

個人事務所を立ち上げた。

私は、お金に無頓着だったから、もしかしたら母には使い込まれていたかもね(笑)。今は、弟が後をついで事務所の社長をやってくれています

 

 邦子さんが30代になるとだんだんと母と娘、2人の関係も変わっていく。

母は、友人も多かったんですが、その友人が娘と旅をしているのが羨ましかったんでしょうね。でも、『 仕事ばかりで一緒に旅行する時間もない、家族で過ごす

時間がない 』と嘆くので、ハワイ旅行に連れていったこともあります

 

 47歳の邦子さんに乳がんが見つかったときも、昭子さんに話すと大騒ぎしたり、

空回りされても困るため、知らせなかったのだとか。そして、メディアに情報が

出るころには、治療も終盤、記事が掲載される前に自分で伝えることができた。

実に孝行娘である。

 

 昭子さんの葬儀では、自らマイクを握り、川中美幸さんと献歌をした邦子さん。

葬儀のあとも、母の休眠口座を整理したり、やることは山積みだったと話す。

「連絡してほしい人のメモを残していたり、母は終活ができていた方だと思うん

です。私には子どももいないし、母が亡くなるまでの姿を見て、もっと早く、

細かい点まで準備をしておかなくちゃ、と思うようになりました」

 

2010年の「山田邦子50歳、芸能生活30年、結婚10年」パーティーで、夫の後藤史郎さんと記念撮影

2010年の「山田邦子50歳、芸能生活30年、結婚10年」パーティーで、

夫の後藤史郎さんと記念撮影

【写真】邦子さんに激似! 母・昭子さんとの貴重な2ショット

 

 弟に迷惑はかけたくないという強い思いもうかがえる。

「葬儀だけではなく、その前に介護生活をどう過ごしたいか、医療の力をどこまで

借りるかも大切ですよね。まだ夫婦とも脚は悪くないけれど、自宅の階段に

手すりをつけてもらったんです」

 

がんサバイバーだからこそ、命のありがたみや

人との関わりを大切に

 

 すでに弁護士に相談し、遺言など公正証書としても残している。

「自分の資産を知る上でも、40歳ぐらいからやっておくといいと思います。

私の場合、弟にはいくら残すのかとか、そのときどきで変わるのでちょくちょく

変更しますよ」また、「会いたい人には、会えるときに会ってください」

邦子さんは力説する。「最近では番組で共演して仲が良かった(渡辺)徹ちゃんや(笑福亭)笑瓶ちゃん、KANちゃんが亡くなったのはショックでしたね。

時間をつくって会っておけばよかったと後悔しています。

 

 先日、夢の中で徹ちゃんがみんなにいたずらして笑わせてくれたんだけど、

(榊原)郁恵ちゃんに連絡したら、その日が命日だったのよ。嬉しかったけど、

私より郁恵ちゃんの夢に出てあげてほしかったなぁ」

自分ががんサバイバーだからこそ、命のありがたみや人との関わりを大切にしながら生きてきた邦子さん。垣根を越えて若手芸人の活躍の場を作ることや、名取のひとりとして長唄をもっと一般の人にも広めたいなど、まだまだやりたいことは尽きない。

いろんな人の助けがあって今の私がいる。だからできる限り

周囲に返していきたいの

 

 最後に、旦那さまのことを聞くと「未亡人になりたい」とギョッとさせ、

「でも夫は毎日、ラジオ体操をやって元気なの。きっと長生きするんでしょうね」と、邦ちゃん流の愛情表現を見せてくれた

 

取材・文/オフィス三銃士 撮影/佐藤ヤスヒコ

やまだ・くにこ◎'80年代に『オレたちひょうきん族』『邦ちゃんのやまだかつてないテレビ』などの伝説的番組に出演し、人気を博す。'20年にYouTubeチャンネル

山田邦子クニチャンネル』を開設。長唄杵勝会の名取、スイカを使った化粧品

ブランド『クニコスメ』の開発などマルチに活躍中。

 

 

父が大反対した芸能界 関口宏さんが説得してくださった

 

公開日: 日刊ゲンダイ  

 

 関口宏さん(C)日刊ゲンダイ 

 

 父親の命日に車で弟とサクッとお墓参りに行ってきた。外出自粛で月命日も2カ月行かれなかったので、2人でお水もたくさん掛けてタオルで磨いて、お花を飾って、お線香たいて。墓地では幸い誰にも会わなかったが、周りのお墓にはいくつか

生花が供えられていたから、やはり皆さんもささっと来てるんだなぁと思った。

 父はもう20年以上前に亡くなったが生きていれば今年90歳。「しゃぶしゃぶでも

食べて帰ろう」とか言っただろうなどと想像して笑った。40年前に私が芸能界

デビューする時とても心配して、何かとうるさかったが今思えばその頃父は50歳。

なんと今の私より若かったのか!? なんだか不思議。父は私の芸能界入りを大反対していたが、ラッキーなことにデビュードラマの共演者に関口宏さんがいて、

父を説得してくださり、OKとなった。父は立教大学水泳部の頃に関口さんのお父さまで俳優の佐野周二さんにとてもお世話になっていて、私も中学2年生の時、お宅に

お邪魔したことが。その時に関口宏さんには会えなかったが、当時ちょうど日テレの大人気ドラマ「気になる嫁さん」を見ていたので、主人公・榊原るみさんの、あっ、お父さん役の佐野周二だ! 居間のコタツには、純役の佐野守(関口宏さんの弟)がごろ寝してるぞ。そこへ、関口さんの奥さまの歌手・西田佐知子(すいません、

全部呼び捨て)が来て、わぁー、ちっちゃい! きれい! わぁー、お手伝いさん役の浦辺粂子はいないのか? わぁー!! と目がチカチカしたのを覚えてる。

 

赤坂のしゃぶしゃぶ有名店でごちそうに…

山田邦子さん(C)日刊ゲンダイ 

 

 ちょっと脱線したが、そんなつながりをちゃっかり利用し、父に台本を見せ、

関口さんがいることを告げ、弱冠20歳の端役がずうずうしくも関口さんに「父が会いたがっています」と言うと、関口さんはとても懐かしがってくださり、一席設けて

くださり、しかも赤坂の有名店で父の大好きなしゃぶしゃぶをごちそうになった。「父の頃とは違う。大丈夫」と言ってくださり「宏が言うならば」なんて父も偉そうに言っちゃって。よく考えてみれば関口さん36歳の頃である。なんと立派な!

 その時のしゃぶしゃぶは生まれて初めて食べる薄く(?)切ったトロけるような

おいしさで、デビュー何年後かに自分のお金で父にごちそうしたが、支払いが

ドキドキするぐらいの高級店だったので、またまた関口さんを尊敬した。

70代後半になってもまだまだ現役、やっぱり尊敬。私もがんばりまーす。 

 

壮観! 現役の大学水泳部員が並んだ父の葬儀

泳ぐ人

−−お父様が亡くなったのは、1998年でしたね。

山田さん: 65歳で会社を退いて2年後、朝、自宅で心臓発作を起こし、ぽっくり

逝ってしまいました。父の背広の胸ポケットには、その日の新幹線の切符が入って

いました。父はお伊勢さんが好きで、毎年お札を取り替えに行っていたんです。

私も10回ほど一緒に行ったでしょうか。

実は、亡くなる10日ほど前、父とちょっとした言葉のすれ違いがありました。

朝の生放送の番組で「親不孝」をテーマにしゃべることになり、収録に向かう

車から父に電話をして「私、親不孝かな?」と聞いたんです。

すると、父が「ま、親不孝だね」と言ったんですよね。

きつい調子ではなかったけれど、当時私は30代後半で、結婚する前でした。周りから「なんで結婚しないの?」とよく聞かれ、「個人の自由だから、いいじゃない」と

思いつつも、両親に対しては何となく申し訳なさを感じていました。だから、

ちょっとグッと来て「わかりました。じゃあね」と言葉少なに電話を切ったんです。

親子のことですから、私としては深刻に受け止めていなかったのですが、横で聞いていたらしい母から「違うからね。親孝行だからね」とすぐに電話がありました。

父も気にしたんでしょうね。「邦子に余計なことを言った」とたいそう落ち込んで

いた、と葬儀の日に父の友人たちから聞きました。

 

山田邦子さん_前編

−−それほどまでに山田さんのことを思われていたんですね。

山田さん:​日々の忙しさにかまけ、父の晩年はゆっくりと一緒に過ごすことが減っていました。もっと話を聞いてあげればよかった、かわいそうなことしてしまったと思いました。まあ、父はちやほやされたいタイプでしたから、友だちに「かわいそう」と同情されたかっただけなのかもしれません(笑)。

葬儀にはたくさんの方々が参列してくださったんですよ。私が芸能人だからでは

ありません。大半が父の会社や取引先の方々、友人・知人、地域で仲良くしていただいていた方々など直接おつき合いのあった人たちでした。父は立教大学水泳部の

監督も務めたので、受付にはお手伝いに来てくださった現役の大学生の方たちが

ずらりと並びました。あの光景には驚きましたね。

父は先輩に可愛がられ、後輩の面倒を見て、人とのつながりをとても大切にした人

でした。うちは裕福という訳ではなかったと思います。それでも父はよく実家に人を招いてもてなしていましたし、困っている人にはお金を貸すこともあったようです。

かたや私は「ピン芸人」なので、かつては水くさいところがありました。

みんなで仕事をしていても、「ひとりで頑張らなければ」とどこか肩に力が入って

いたんです。でも、2007年に乳がんになった時にたくさんの人に支えてもらい、「あ、私、間違っていたんだな」と気づかされました。今はチームのありがたさを

痛いほど感じています。だから、父の姿を思い返すと、身内ながら「すごいな」と

思いますね。『ひょうきん族』の撮影現場の見学に来て、たまたますれ違った

さんまさんに「おい、さんま! 無人島でふたりきりになっても邦ちゃんだけには

手を出さないって言っただろう? どういうことだ」と詰め寄るような破天荒な

ところもありました。でも、真面目で一生懸命。人とともに生き、人とともに仕事をする。父はそんな「昭和の男」でした。

~EPISODE:さいごの晩餐~

「最後の食事」には何を食べたいですか?

スイカにしようかな。大好きなんですよ。コロナ禍前には新潟に畑を借り、毎年500玉くらい作っていました。JAさんに許可をいただいて「クニコ」と名づけ、チャリティー活動の一環として販売もしたんですけど、品種名は「祭ばやし777(スリーセブン)」。すごく大きくて甘いんです。新潟で生まれた品種だと思い込んでいたのですが、つい最近、奈良県の萩原農場で開発されたと判明。「すいかの日(7月27日)に謝りに行ってきました(笑)。

祭ばやし777

「祭ばやし777」は大きくて7〜8キログラム、小さくても6〜7キログラムに育つ

大玉品種。コクと風味が大きな特徴で、シャリっとしたスイカ本来の食感を持ち、

全国で栽培されている。

萩原農場の祭ばやし777

萩原農場の祭ばやし777

プロフィール

タレント/山田邦子さん 【誕生日】1960年6月13日
【経歴】東京都出身。1980年に芸能活動開始。『オレたちひょうきん族』

『邦ちゃんのやまだかつてないテレビ』などで人気に。近年は舞台で活躍するほか、2020年にYouTube「山田邦子 クニチャンネル」を開設。若手芸人とのコラボや

最新の芸能ニュースへのコメントが注目されている。

(取材・文/泉 彩子  写真/鈴木 慶子)

インタビュー後編はこちら

 

「結論は急がない方がトク!」山田邦子さん【インタビュー後編】~日々摘花 第30回~【一部抜粋】

コラム

「結論は急がない方がトク!」山田邦子さん【インタビュー後編】~日々摘花 第30回~

2020年にデビュー40周年を迎え、長年所属した事務所から独立するとともにYouTube「山田邦子 クニチャンネル」を開設。2022年10月には20年ぶりに

ミニアルバム「ザ・山田邦子カーニバル!」をリリースするなど新たな

チャレンジを続ける山田邦子さん。後編では芸への思いや死生観に迫ります。

 

40歳から長唄を始め、19年で名取に

 

−−YouTube「山田邦子 クニチャンネル」は2020年以来約300本の動画をアップ

されていて、チャンネル登録者数は8万人を超えます。アントニーさんや

鬼越トマホークさんなど若手芸人ともコラボされていますね。

山田さん:若い人に会うと刺激になりますね。YouTubeのスタッフも19歳や20歳でみんな若いんです。私も還暦を超え、若さや勢いというものにはちょっと嫉妬します。かみ合わないことも多いし、正直、「くそバカ」と思いますよ。でもね嬉しい。若い人たちの破茶滅茶なエネルギーに触れると、自分も頑張ろうという気になります。

最近は長年「やりたい」と思い続けていたことを少しずつ実現できていて、

幸せだな、ありがたいなと感じています。2020年に『笑点』の演芸コーナーで

漫談をやったり、浅草演芸ホールに出演したりしたのも感無量でした。

私は下町で生まれ育ち、子どものころから落語が好きで、学生時代は落語家に

なりたいと本気で考えたほど。演芸場には特別な思い入れがありました。

でも、20歳でデビューしてすぐ売れ、自分は「ぽっと出」という引け目がありましたし、師匠もいないので、演芸場はずっと高嶺の花でした。だから、呼んでいただいてとても感謝しています。

 

「芸能人大運動会」前日にかけた警察への電話

−−40歳の時に「私に何の芸があるんだろう」と考えたのは、

きっかけがあったのでしょうか。

山田さん:デビュー当時からその思いはあって、「何かをきちんと習いたいな」とずっと思っていました。でも、20代、30代はできませんでした。時間を言い訳にしてはいけないですけど、死ぬほど働いて、お稽古どころか寝る時間さえありませんでしたから。

−−週に14本、隔週を入れると17本レギュラー番組を抱えている時期もあった

そうですね。

山田さん:今でこそ「働き方改革」でテレビ業界も変わってきましたが、当時は無茶苦茶でした。夜中の30時に収録が終わり、次の収録が朝6時からという日もあって、空き時間がないことを「即死」と言っていました。よく生きていたな、と思います。
充実していましたし、スタジオでは元気いっぱいだったんですよ。

でも、体は疲れ切っていて、そうすると、精神衛生上いいはずがないですよね。

このまま死のうかな、と思ったことは何度もあります。

 

山田さん:本気で危なかったのは、20代後半だったかな。翌日に芸能人大運動会に

出ることになっていたのですが、こう見えて私は集団が苦手。それでも、いつもなら与えられた役割をこなそうとするのですが、「この時はピン芸人の私がそこにいる

意味があるのかな」と考え込んでしまったんです。そこで、事務所に相談してみたのですが、「とにかく行ってきなよ」と相手にされませんでした。

気落ちして「死にたい」という気持ちが膨らみ、なんとかしなければと考えたの

ですが、家族や友人に話したら、迷惑をかけてしまいます。ふと思いついて警察に「死にたいと思っています」と電話したところ、すごく親身になって話を聞いて

くださって。このまま話を続けたら、「山田邦子」だとわかってしまうなと思ったら我に返って、「もう大丈夫です」と電話を切りました。
ところが、それほどまでに思い詰めたのに、次の日に運動会に行ったら、すごく

楽しかったんですね。こんなことくらいで死ななくて良かった、と思いました。

それ以来、「死にたい」と思ったことはありません。


この仕事をしていると、根も葉もないことを言われたり、きつい言葉を浴びせられることもあります。その瞬間はもちろん傷つきますし、腹が立ちます。でも、あの時に「早まらなくてよかった」という経験をしているから、「待てよ」と思うんです。

嫌なことを言われて相手の人格を疑いそうになっても、「もしかしたら、お腹が空いていて機嫌が悪かっただけかもしれない」と考えて、結論を急がなくなりました。

すると、早とちりで「苦手だな」と思った人と時間を経て仲良くなったり、

助けてもらったり、トクをしたことがいっぱいあります。

 

 

あの三女、人に言われた言葉や聞いた言葉を他人に言わせないで 物申す パンチ!パンチ!

占い師の母が「イニシャルにKが付く人。この業界のことを、よく知っているから

聞きなさい。」と言われていましたが、とても苦労させられたんだと思います プンプン おばあちゃん

 

邦子さん、いつまでも夫婦仲良く、心身ともに健康で、お仕事頑張って下さい 照れチョキ

 

みんな、これからは、なにかあれば、その道のプロに教えて貰って下さい お願い おばあちゃん 虹

 

関口宏さんと、お父さんがそんな縁があったなんて奇遇ですね 笑ううさぎ 音譜

邦子さん、両親のご冥福をお祈りいたします。  

 

1989年7月11日マッチの自宅で自殺未遂をしたと翌日のニュースで知りました。

その当時は、衝動的に自殺をしたんだと思っていましたが、本当は、凄く強いパワーを感じ自殺をさせられたんだと確信しました。明菜さんは、何も言わないけれど、

占い師の母が「私しか言えないから言いなさい!」と言われたので ムキー おばあちゃん 爆弾 パンチ!パンチ!

本当のことを言えなかったのは、とても辛かったと思います 泣くうさぎ

 

今までいろいろありましたが、お仕事頑張って下さい。応援しています 笑ううさぎ おばあちゃん 虹

 

 

伊勢物語のあらすじ

 

19 天雲のよそ


昔おとこ宮つかへしける女の方にこたちなりける人をあひしりたりけるほともなく

かれにけりおなしところなれは女のめにはみゆる物からおとこはある物かとも

思たらす女

 

 あま雲のよそにも人のなりゆくかさすかにめにはみゆる物からとよめりけれは

おとこ

 

返し
 あまくものよそにのみしてふることはわかゐる山の風はやみ也とよめりけるは又

おとこある人となむいひける

 

 

現代語訳
昔、男が、宮仕えしていた女のところで、女房であった人と深い仲になっていたが、暫くして男は行かなくなってしまった。同じ所に務めていたので、女の目には

男の姿が見えるものの、男は女を無視しその存在すら否定しようとしている。女は

 

 

  天雲のよそにも人のなりゆくか 
   さすがに目には見ゆるものから 


      天雲のように、あなたは遥か遠くのものになって行ってしまうのですね
        そうはいうものの、私の目にはあなたのお姿が見えているのですよ


と詠んだので、男は歌を返した。
  天雲のよそにのみして経ることは
   わが居る山の風はやみなり 


   天雲が、あなたから遥か遠くにしかいないのは
   私がいつもいる山の、風が激しくて近づけないからです


と詠んだのは、他に男がいる女だからだ、と噂だった。

 

【補足】
御達:女房の中でも一段身分の高い者

この段は、女が浮気をしているのではないか

 

感想
恋仲にはなったものの、いつの間にか往来はなくなった男女の関係
そして浮気をしてしまった。男は心が去ってしまった

 

 

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