「赤軍派」理論の崩壊
「よど号」から降りた「赤軍派」や山村次官と乗員は「平壌ホテル」へ入った。
「改装しているので50年前とは随分変わっていますが、大陸風の落ち着いた独特な雰囲気は
同じ」と赤木はいう。平壌市内を横切って流れる大同江(テドンガン)に面するこのホテルは、今は在日朝鮮人の「祖国訪問団」がおもに利用している。
高層ビルに囲まれた現在の平壌ホテル(2019年10月14日撮影)
ホテルへ入ってすぐに、北朝鮮側と「亡命」についての交渉が行われた。
その様子を魚本が振り返る。「会議室のような所で、私たちと山村代議士、乗務員なども参加して安全員(警察)から身元確認と朝鮮に来た理由などを訊かれた。そのためには赤軍派の理論、とくに国際根拠地について話さなければならず、田宮さんが説明したがどうしても長くなった」
「途中でしびれを切らした係官が『それはもういい、ここに居たいのかどうなのか』と訊いて
きたので、田宮さんが『居させてもらいたい』と答え、『分かった』ということで終わった」
到着4日目にメンバーは、平壌市の北東に位置する三石(サムソク)区域の
「元信(ウォンシン)外国人宿泊所」へ移動。
緑豊かな広大な敷地に点々と施設があり、眼下には大同江が流れる。
「ハイジャックをやって、これで本当の兵士になった。体を鍛え、銃を持って世界中をかけずり回って戦うという気持ちだった」と赤木は語っている。
このように「赤軍派」の若者たちは意気込んでいたものの、北朝鮮政府は軍事訓練を拒否し
続けた。しかも日本国内の「赤軍派」メンバーは、次々と逮捕されて組織は壊滅してしまう。
「赤軍派がハイジャックを契機に強化され大きくなるのではなく、逆に一段と強められた
敵権力の弾圧の前に壊滅的な状況に陥った。その現実が私たちの思想の弱さ誤りを
示していると思い、思想自体を根本から立て直さねばと思いました」(小西)
メンバーたちは「赤軍派」理論の正しさを証明しようと、政治経済・哲学・朝鮮革命史・
国際労働運動史などの講師たちと論争する。だが、ソ連や中国と距離を置いた独自の社会主義
建設を進めている北朝鮮の状況を見て、自分たちの主張はおかしいのではと思い始める。
若林盛亮は次のように語る。
「(赤軍派は)『国際的支援なしに一国で社会主義は不可能』との主張。朝鮮は自主・自立・
自衛で、ソ連中心の東欧諸国とは一線を画した独自路線。(「赤軍派」理論は)これを放棄せよという主張になる。また『自分の国だけしか考えない一国社会主義は堕落する』というのも
(論争での)論拠にしたが、朝鮮を見て『堕落』が見えなかった」
翌年7月に、リーダーの田宮が「赤軍派」理論の過ちを全面的に自己批判した。
「赤軍派の理論を頭から信じていたので、その誤りがなかなか分からなかったんです。
私の場合は田宮氏以下の皆が間違っていたというので、考えざるを得なくなったというのが
偽らざる心情でした。誤りを認めるのは大変なことでした」(赤木)
元山の海岸で遊ぶハイジャックした9人(「よど号グループ」提供)
「赤軍派思想は指導部の人たちの思想と思っており、何か客観的なものとして捉えていた。
しかし、その総括を深める過程では『己自身にあった赤軍派思想』が問われるわけで、それを
自身の中に見つけだし、自身の思想的過ちとして総括していくのは、しんどいものだった」
(魚本)このようにメンバーたちは、苦悩しながら「赤軍派」理論と決別したものの、
ハイジャックをして多数の乗客を人質にしたことについては十分な“総括”ができていなかった。
日野原重明氏からの衝撃的批判
「よど号」の乗客の中に、後に「聖路加国際病院」院長を務めた日野原重明
(1911年10月-2017年7月)がいた。機内では、乗客たちの健康状態を診ていた。この
ハイジャック事件は、敬虔なクリスチャンである日野原の生き方を大きく変えることになる。
「金浦空港の土を踏んだ時、これからの僕の人生は与えられた人生だ。だから、これからは
人のためにこの身を捧げたいと決心した。私の人生は、そこから始まった」解放された時に
思ったことを、このようにたびたび語っている。この決意は105歳で亡くなるまで実践された。
日野原は羽田空港へ戻ってからの記者会見で、ハイジャック犯から受けた恐怖を乗客代表として記者から問われた。すると「いやあ、彼らは学生だからからねえ」として、ハイジャック犯たちを批判しなかった。そうしたことから「よど号」メンバーたちは、自分たちの「理解者」と
勝手に思い込むことになる。
ところが、である。2000年のハイジャック30年集会へのメッセージを日野原にもらうため、
元「赤軍派」議長の塩見孝也(1941年5月-2017年11月)が訪問すると「あの事件は乗客に
とっては精神的・肉体的トラウマになっているんですよ」と厳しく批判されたのである。
これはメンバーたちにとって、大きな衝撃だった。
小西の婚約者とハイジャックのメンバー(1975年秋に撮影、「よど号グループ」提供)
「『いい言葉』が聞けると期待した自分たちの『スケベ心』、学生たちの『大義』を理解して
くれていたという思い上がりを痛撃されたのだと思う。それまでは、乗客を傷つけることが
なかったことが評価されているとか、また『交流会』などよい印象を持たれていたのでは
ないかとか、それほど悪いことはしていないといったように甘く考えていた。
(ハイジャックの)総括は『人民を盾にとる闘争方法は誤り』といった一般的なものに
止まっていたが、それでは足りないと思った」(若林盛亮)
「日野原先生の言葉を受けて『人を犠牲にする大義に大義はない』とハイジャックを改めて
総括しました。今はさらに『一人一人を大切にしない革命は革命でない』と革命の本質に
関わる問題としてとらえ、深く謝罪しなければと思っています」(小西)
「(ハイジャックから)2年後の記者会見の時に、『ひとりよがりの行動でしかなかった』と
自己批判しましたが、乗客乗務員の方に謝罪する言葉はまだなかったと思います。
危険な身にあわせたことに、改めて謝罪したいと思います」(赤木)
「赤軍派」理論の過ちについては全面的に総括したものの、ハイジャックで乗客を人質にした
ことを「仕方がなかったこと」として容認する考えが残っていたというのだ。
若林盛亮は、ハイジャック時の自分たちの思い上がりについて、次のように語る。
「私は『ちっぽけな愛などクソ食らえ』とハイジャック前の決意文に書いた。
『父親が危篤だ、死に目に会えなくなるから降ろしてくれ』と福岡で懇願した乗客を、
『男だからだめだ』とにべもなく断った。そのことに表れているように、一般社会での家族愛・恋愛感情といった人間感情を、命がけの革命をやる上では『克服すべきもの、否定すべきもの』という考えになっていた」なお、日野原と「よど号グループ」とは1度だけ会ったことがある。2011年10月に、日本へ帰国している妻と子どもらが100歳を迎えた日野原に会いに行き、
平壌からの朝鮮人参や手紙などを渡して懇談している。
「日野原先生は、かけがえのない教訓を残してくださった人生の師、恩人として生涯、
私たちの心の中に生き続けていくだろう」と、「グループ」は追悼文で述べている。
日本へ帰国している2人の妻が葬儀に参列した。
リーダー田宮高麿の急死
ハイジャックに参加した9人のうち、すでに5人が死亡している。ハイジャックを指揮し、
「よど号グループ」を率いてきた田宮高麿は、1995年11月30日に急死した。
その時のようすを、若林盛亮が詳しく説明する。
「第1発見者は私だった。前日、(訪朝していた)塩見(孝也)氏らを見送って『村』に帰った田宮の顔色はどす黒かった。夜にイチロー(が出ていた試合)のTVを見ていたが、
『疲れた、サウナをやって寝る』と言って早めにアパートに帰った。連日の夜を徹しての
議論に、よほど体力を消耗していたのだと思った」「翌朝、定例の朝の打ち合わせ会議にも出てこないので『よほど疲れているんだろう』と、皆でそっとしておこうということになった。でも10時過ぎても出てこないので様子を見に行ったら、ベッドから落ちて動かなくなっていた」
「私は驚愕のあまり冷静さを失っていたが、大変なことが起こったことだけはわかった。
動かなかったが、身体を触るとまだ暖かかった。まだ何とかなるのではと皆に知らせ、管理所に
看護の覚えがある人もいたのでその人を呼んで看てもらった後、『すぐ病院へ』と車で運んだ」
「いまもあの光景は忘れられないが、車中で私と安倍(魚本)は田宮の心臓マッサージを続けっぱなしだった。『なんとか息を吹き返してくれ』と、祈る思いで交互にマッサージを続けた。
体温が冷えていかないことをただただ祈る思いだった」「だが病院では『心臓麻痺、死亡は
早朝』という残酷な診断を下された。その時、リーダーを失った悲しみというより、もっと別の何か、大黒柱を失った言葉にできない衝撃だった。しばらくは誰も言葉が出なかった」
亡くなった田宮を見守る妻の森(「よど号グループ」提供)
田宮の「心臓麻痺」という死因について、日本で疑問を呈する人たちがいる。
だが、この若林盛亮の話には極めてリアリティーがある。
「田宮さんが亡くなったと聞いた瞬間、前日、田宮さんの顔色がチョコレート色に変わったことを思い出しました。なぜあの時、病院へ一緒に行かなかったのかと後悔しました。悲しみの
中で、私がしっかりしなければという気持ちが生まれてきたのを憶えています」(小西)
「愕然、茫然自失。やはり田宮さんに『負んぶに抱っこ』でしたから。それが田宮さんの
死を早めたのではないかという自責の念がありました。
それで『依存心克服』でやってきたつもりですが、果たしてどこまで出来たか」(魚本)
亡くなった人たちの遺影(2014年9月27日撮影)
「日本人村」の中には、「グループ」で亡くなった人たちを追悼するための部屋がある。
1985年に平壌で病死した吉田金太郎、2007年に千葉の病院で死亡した田中義三。
ハイジャック時は17歳と最年少の柴田泰弘は、2011年に大阪で病死している。
岡本武は田宮と意見が対立して「村」を出て行き、1988年8月28日に妻の福留貴美子と
共に土砂崩れで死亡したとされる。岡本について、若林は次のように語る。
「志半ばで逝った同志たちへの想いはそれぞれある。岡本は帰国を巡って袂を分かったが、
『日本のために』と共に(ハイジャックで)来た同志。あの時、もっと良くできなかったのかと今は悔いが残る。いつも彼らに見られていると思って生きている。
彼らの分まで志実現に尽くしたいと思う」 (文中敬称略、提供写真以外は筆者撮影)
実行犯が語る「よど号ハイジャック事件」50年目の新事実【中】
日本の現代史に残る大事件「よど号ハイジャック事件」から、今年で50年が経つ。
北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)へ渡った犯行メンバーたちはその後どうなったのか。
今、何をしようとしているのか――。
「ハイジャック犯」と結婚した女性たち
1970年3月31日に日航機「よど号」をハイジャックし、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)へ渡った「赤軍派」。メンバーの結婚については、長らく知られていなかった。
ところが1992年4月に金日成(キム・イルソン)主席が、日本のマスメディアとの会見で
妻と子どもの存在を明らかにした。
小西の結婚式での全員の写真(「よど号グループ」提供)
メンバーの中で最初に結婚したのは小西隆裕だった。
ハイジャック前に結婚を約束した女性が、大変な苦労をして平壌へやって来たのだ。
5年半ぶりに再会して結婚。その後、他のメンバーも続いた。
田宮高麿の妻となった森順子は、朝鮮半島北側で生まれた父親を持つ。「朝鮮人として
生きるのか、日本人として生きるのか」と悩んでいた時にハイジャック事件が起こる。
「当時、私は高校1年でした。彼らが朝鮮という国を選んだことへの衝撃と不安を胸に、
何日間もテレビの前に座っていたことを憶えています。朝鮮は私のもう一つの祖国でも
あります。行きたくても行けない祖国に、いとも簡単に行ってしまった彼ら。朝鮮で何を学び、日本人として何を支えにどう生きていくのか聞いてみたいという思いを強く持ちました」
1977年11月、森は、祖国の土に還してあげたいと父親の遺骨を持って北朝鮮へ渡る。
「私が最初に見た朝鮮社会は、(朝鮮戦争の)廃墟から素手で立ち上がった人々の強さと自負心、そしておおらかさでした。確かに物は少ないし、とても豊かな生活とは思えない現実です。しかし、物や金を優先する社会でも、人を軽く見て対する社会でもないように感じました。
40年が過ぎた現在も、こうした見方は変わっていません」
森は平壌滞在中に、関心があった「よど号」メンバーたちに会いたいと希望を出すと、
田宮がやって来た。何度か会ううちに「今度はこの人を、祖国(日本)へ帰してあげたい」と
思うようになる。そして翌年5月に結婚式を挙げた。
結婚直後に南浦(ナムポ)で撮影された森と田宮(「よど号グループ」提供)
「私の結婚は、ひと言で言って『出会ってしまった』ということに尽きます。『赤軍派』とか『ハイジャック犯』とかは、私の中では問題になりませんでした。ただ、気になったのは(結婚について)何も知らない日本の家族です。いつか会える、きっと私を理解してくれる日がくる。そう信じ、自分が選択した道を進もうと思ったわけです」
中学校を卒業したばかりの若林佐喜子は、「よど号」ハイジャック事件を自宅のテレビで見て
いた。「特別な思いはなく、家族や友人と話題にした記憶もない」というほど関心はなかった。
そんな若林の北朝鮮との関わりは、通うようになった保育専門学校で「主体(チュチェ)思想」の研究会と出会ったことから始まる。当時、18歳。仲間たちとそれを学ぶ中で、
北朝鮮へ1度行ってみたいと思うようになる。
保育園で働いている時に、その研究会活動に行き詰まってフランスのパリへ行く。
そこで、1996年に渡っていた若林盛亮と出会い、悩みを相談するようになった。そうする
うちに「この人に付いていけば間違いない」と思い、1977年4月に盛亮と一緒に平壌へ行く。
若林の結婚の際に撮られた写真(「よど号グループ」提供)
「若林(盛亮)に対して『よど号、ハイジャック犯』というより、日本を離れてもずっと日本のことを思い続けている人という印象の方が強かった。異国の地にあって祖国日本に熱い思いをよせ、日本のために尽くしていこうとしている若林を少しでも助けたい、付いていきたいという思いで結婚を決心しました。帰国という問題は楽観的にとらえていて、まさか朝鮮での滞在がこれほど長くなるとは夢にも思っていませんでした」
森や若林佐喜子ら「よど号」メンバーと結婚した妻たちは、彼らと結婚するということの意味を、結婚時にはあまり考えなかったようだ。
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「よど号ハイジャック事件」実行犯による51年目の新証言【前編】
ハイジャックの真相を実行犯に問う
「よど号ハイジャック事件」から3月31日で51年になる。赤軍派がハイジャックし、
北朝鮮へ向かっていた日航機「よど号」が、平壌近くで急に進路を変えて
韓国(大韓民国)の金浦(キムポ)空港へ誘導されて着陸。誰がこれをさせたのか?
多くのジャーナリストやメディアが “謎解き” に挑んできた。
昨年は「よど号事件」50年に合わせ、私は「よど号グループ」全員から、彼らに関する
様々な疑惑について54項目の質問を送付。そしてA4用紙37枚におよぶ「回答」を得た。
その内容は現代ビジネス(2020年3月27日)に『実行犯が語る「よど号ハイジャック事件」
50年目の新事実』として詳細なインタビューを掲載している。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/71341
その後も、「よど号ハイジャック事件」に関して書かれた新たな書籍が出版されている。
そこで、51年の今年、平壌で暮らす実行犯4人に読んでもらうことにした。
「よど号ハイジャック事件」や「よど号グループ」に触れた書籍は、30冊近くも出版されている。近年では「グループ」の5人も執筆している『追想にあらず 1969年からのメッセージ』(三浦俊一、2019年)、「グループ」内の3人が関与したとされる拉致事件についての
『えん罪・欧州拉致』(刊行委員会、2017年)、金浦空港で陣頭指揮をとった「日本航空現地対策本部」事務局長による『「よど号」事件 最後の謎を解く』(島田滋敏、2016年)、
そして「グループ」6人が拉致疑惑への反論として出した『「拉致疑惑」と帰国
ハイジャックから祖国へ』(よど号グループ、2013年)といった書籍がある。
「事件」から半世紀もの歳月が経っても、彼らに関する書籍がいまだに出されるのは、
日本の戦後史において特筆すべき大事件であり、解き明かされていない “謎” も
未だに残されているからだろう。
そうした中、昨年11月に河出書房新社から『実録 昭和の大事件「中継現場」』と言う書籍が
刊行された。この本もまた「よど号ハイジャック事件」に多くのページを割いている。
著者の久能靖氏は、日本テレビのアナウンサーとして「東大闘争」や「浅間山荘事件」
などを実況中継したり、数多くのテレビ番組でキャスターを務めるなどして活躍した。
2002年には『「よど号」事件 122時間の真実』(河出書房新社)を出している。
「意外なことから(よど号ハイジャック)事件の全貌を知る機会が訪れた。
じつは江崎(悌一)副操縦士と私は親戚関係にあり、ある宴会の席でたまたま隣り合わせに
なった際、自然に『よど号』事件の話題になり、改めてくわしく話をしてもらえることに
なったのだ。また石田真二機長をはじめ、クルーの方々にも会えることになったが、石田機長には大阪の居酒屋で、江崎副操縦士には自宅で、そのほかのクルーや乗客の方には喫茶店や
職場などで話を聞いた」(『実録 昭和の大事件「中継現場」』、以下『中継現場』)
「よど号」のクルーだけでなく、事件当時の韓国軍の最高責任者だった丁来赫(チョン・ネヒョク)国防部長官へのインタビューも実現させている。久能氏はまた、乗客たちとも会い、
録音テープや詳細なメモなどを入手し、事件の核心に迫ることが出来たのだ。
そのため、『実録 昭和の大事件「中継現場」』の第4章「よど号ハイジャック事件」を平壌で暮らす実行犯4人に、本の内容に関連した犯人しか知らない事実などを書いてもらうことにした。この本や、「よど号ハイジャック事件」に関する近年に出版された書籍、テレビで放送された
内容も検証しながら、「よど号事件」の最大の “謎” に迫ってみたい。
なお実行犯4人から送られてきた文章は、読みやすくするために最低限の手を入れている。
この続きは、今夜にUPします
純ちゃんに嫌な事 ( 首や頭を痛くしない、咳込まさない、口臭も持って来ないで、
体を動かしにくくしない、転ばさないで ) 人の感情を持って来ないで、言わさないで!
【ボートゲームの禁じ手】を使わないで!
いくつかのゲームには、ルールで定められた禁じ手が存在する。
禁じ手を打った(指した)場合、即座に負けとなるのが一般的である。
スポーツやゲームのように明確な規制で禁じられたものではなく、
「使うべきではない」とされる手法についても「禁じ手」と呼ばれることがある。
※このルールを違反した時点で、ゲームオーバー及びゲームアウト!その技術を使わないで!
その嫉妬と執着、本当に止めて。あの三女とあの子が一緒になって人の後ろに憑くのも。
本当に、人に迷惑がかかる言動行動は止めて。
人に体調不良やネガティブな感情を持って来ない。口臭も。咳込まさない。やる気を取らない、人の後ろに憑かない、憑依しない、入って来ないで。心を読まない、言ってこないで
思考低下させないで、胸にモヤモヤさせないで、情報を吸い上げないで。トイレ関係も。
言葉使いが乱暴。人をバッサリ言葉で切らない。深夜に連絡してこないで
仕事の邪魔や記憶障害にしないで。目の錯覚、頭をボーっとさせないで、笑い上戸にしないで。
特にブログを書いている時、いちいち注文を言ってこないで、自分で考えて書いて。
私が寝てると思って、いろんなことを言うの止めて、負けず嫌いも程々に、優柔不断
自分が言わせたい言葉を人に言わせない。乗り物関係を運転時は、邪魔をしてこないで
人の感情やパワーを抑えないで、持って来ないで。口のろれつが回らないようにしないで!
頬を麻痺させない!唇を痺れさせないで!卑猥な言葉を言ってこないで、言わさないで!
水晶を使って人を脅してこないで、個人情報保護法、プライバシー侵害しないで!
その力、仕事以外に使わないで!人の為に使って、決して悪いように使わないで
全責任は、お母さん達に取ってもらう。もちろん本人にも取ってもらう!
人のPCやスマホにハッカーになって侵入してこないで、エラーが出たので止めて
首を痛くしないで!長女のパワーを持って来ないで!
3つの約束やルール、個人的に約束した事、日本の常識は必ず守って。みんなに対して
( 私の言うことを聞く・命関係は打ち止め・引退関係・契約書など、反故にしない )
いつもありがとうございます。
最後までお読みいただきありがとうございます