大正→昭和→平成→令和、95年間おつかれさまでした | + つれづれ in タイ・バンコク +

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つれづれなるままに。

2014年04月からタイ・バンコクに移住しています。
しごとは現地採用、1人暮らしです。
遊園地でも旅行でも1人でどこでも行けちゃう派。
でもインドア。手広くちょっぴりオタクです。

2019年11月5日、祖父が他界しました。

95歳でした。


祖父は大正の生まれで、
祖父にとっての末の娘にあたる母が
初めて産んだのが私でした。



じーちゃんの住む東京都清瀬市は、
私たちの住む千葉からも車で行けるので、
小さな頃から、
何度も何度も会いに行きました。

たくさん怒られたし、
あまりにも手がかかる子どもだったので
押し入れに閉じ込められたりも。

そんな話は、会うたびに、
「アヤは泣いて泣いて仕方ねぇから、押し入れにしまってやったんだ」と
目を細めながら話していました。



じーちゃんは、いつも美味しいものを
送ってくれていました。

毛ガニも、マスも、筋子も、ウニも、
うんとたくさん、送ってくれました。

ポンジュースが大好きなのも、
子どもの頃、
じーちゃんチでたくさん飲んだからです。



じーちゃんは、
背がとても高くて、
体がとてもしっかりしていて、
95歳になっても、
杖をつきながらも、
自分でしっかりと歩いていました。

戦争では、飛行機に乗って、
タイにも来ていました。

頭も良くて、ボケるコトもちっともなく、
昔のコトも本当によく覚えていました。

自分で興した会社の経理仕事も、
ギリギリまで自分でやっていました。



10月末に、家の中で転び、
骨折の痛みのために、
じーちゃんは入院したそうです。


11月2日には、
入院先の病院が許可を出してくれて、
LINE電話でいろいろと話をしました。

話しているうちに気分が良くなってきたのか
明るい声で前向きな話も出来ました。



他界する前日の11月4日。
もう一度、電話で話しました。

その時にはもう、
とても苦しそうに話すので
一時帰国することを決めました。

しごとの指示や相談も済ませられるよう、
翌日11月5日の深夜便で帰るチケットを
買いました。



そして、11月5日、
じーちゃんは旅立ちました。



最後まで、
アヤの心配をしてくれていました。

早くタイから日本に帰って来いと、
何年もずっと、
私の本帰国を待ってくれていました。



でも、最期は1日、間に合わなかった。



歳が歳だけに、
一時帰国の際に会うたび、
もしかしたら会えるのは最後かもしれない、
そう思ってはいました。

でも、この5年半、
何度も何度もその不安は現実とならず、
いつも温かく出迎えてくれていたので、
なんとなく、不安を覚えながらも、
頭のどこかでは、
また会えるような気もしていました。



7月の一時帰国の時も。

いつものように話して、
いつものように別れて、

何だかんだ言いながら、
また会えるよなって思っていました。



そんな当たり前の繰り返しが、
当たり前では、もう、なくなってしまった。



海外でも、日本でも、
近くに住んでいるのでなければ、
何かあってもすぐに会いに行けないと、
わかっています。

すぐ近くに住んでいても、
しごとや、それ以外の事情で身動きが取れず
会いに行くことが難しいことも。


いろいろと考えて納得した上で
海外で生活しているので、
致し方ないと理解もしています。



ああでも、やっぱり最期は、
会って、見送りたかったと、
もう1日早く帰っていればとか、
もっと前に本帰国していればとか、
そうした思いがふと沸き起こるのも
事実なのです。


仮に会えていたとしても、
それはそれで、
また別の思いが生まれていたとも思います。

喪ってからしばらくは、
きっとそんな思いは
誰しも、どんな状況でも
巡るものだとも思います。


それでも、
もっと何かしてあげられたのではと
考えずにはいられないのです。



たくさんの愛情を受け取ってきた分、
その愛情を返すコトは出来たのだろうかと
自問自答をせざるを得ません。

逝ってしまっては、もう、
この愛情を返すコトが出来ないじゃないか。

愛情借金を遺したまま、返しきれないまま、
旅立たれてしまった。

遺された者は、
多分に受け取りすぎた愛情を
もっと早く、もっとたくさん、
返しておげばよかったと
後悔しないではいられないのです。

それだけ、
愛されていたのだと思うのです。


当人は何の見返りも求めておらず、
掛け値無しに愛してくれていたのも
理解しています。

しかしだからこそ、
そのような稀有で大切な存在を
永遠に喪ったという事実に
悲しさが込み上げてくるのです。

この喪失感は、
どのようなシチュエーションで
その時を迎えたとしても、
愛されていた分、
受け入れざるを得ないものだと思います。




急きょの一時帰国を終えて、
12日ぶりに出社しました。

一時帰国が決まったそのときは、
新しくチームを立ち上げたばかりで、
入社したばかりの子やインターンシップ生も
受け入れてすぐのタイミングでした。

不在時のための指示はしておいたし
周りのサポートもたくさんあったから、
メールやラインのやり取りだけでも
何とか乗り切れたかな、と思っています。

本当に、ありがたい限りでした。


タイに戻ってからは、
不在時の穴を埋めるように、
ちょっぴり忙しくしていました。

私には私のやるべきコトがあるし、
私にしか出来ないと言える自負もある。

まだまだ、コレから。
どんどん、コレから。


そんな慌ただしさが支えとなって、
悲しみの沼に沈み込まずにいられたのでは
ないかと思います。


ああでも。

布団に入ってからの夜、
食事の箸を置いたとき、
電車の中で窓に映る自分と目が合った瞬間、

そんなふとした瞬間に、
もう、次に日本に帰っても、
じーちゃんには会えないのだな、と
淋しさを思い出します。

淋しさを覚えると共に、
じーちゃんの優しさも思い出して、
じんわりと胸が熱くなります。

胸が熱くなって、
目頭も熱くなってきます。


しばらくは淋しい気持ちが
ひょっこりと顔を出すのだろうけれど、
時間が経っていけば、
「淋しさ」は、いつしか
「寂しさ」に変わっていくと思います。


闇雲に悲しむつもりはないけれど、
淋しく思うこの想いが、
旅立つ背中を愛しく思っていたからに
他ならないからなので、
今だけは淋しがらせてほしい。

そしてこの淋しさが、
じーちゃんへの手向けの花と
なりますように。



じーちゃんは、
大学で飛行機をつくる勉強をして、
飛行機をつくって、飛行機に乗って、
きっと飛行機が好きだったから、
最期に飛行機を入れておきました。


向こうに着いたら、
おばあちゃんにもよろしくね。



大正から令和の時代を駆け抜けてきた
じーちゃん。

また会うときには、
たくさん可愛がってくれてもよいからね。



じーちゃん。

95年間、おつかれさまでした。



ありがとう。