F・ルボワイエ著『暴力なき出産』より

 

「どうして女性は出産のときに苦しむのか」

この問題を考えることで、女性の苦しみの原因に気付きました。女性が抱く恐怖を知りました。

普段は忘れていますが、人間の心の奥には、サディズムが潜んでいるのです。

押し入ったり、穴をあけたり、切り裂いたり、切断したり、解剖したり…

ゾンデで武装し、電子医療機器を誇りにし、将来のノーベル賞受賞者となる若い研究者を動かすものはなんでしょう。愛でしょうか、野心でしょうか。

学問や研究はその偉そうなマントの下に、かつての宗教と同じように、多くの犯罪を隠しています。

 

大人たちの感覚は飽和状態に達していて、すっかり鈍くなっています。嘆かわしいのは年をとることではなく、わたしたちの肌がざらざらし、生気を失い、無感覚になっていることです。赤ん坊の感覚がすっかり目覚めていて、とても繊細で敏感だということに気がつかないことです。そのため、赤ん坊にとってこの世は怖いところになっています。

 

まず、赤ん坊は何も見えないと大人は思っています。そうでなければ、こんな子どもに手術用の照明があてられることはないでしょう。外科の医者さえ、こんなまぶしい光には耐えられないはずです。

実際は赤ん坊の胴体がまだ母親のからだのなかに残っていて、頭が出るか出ないかのうちに赤ん坊は目を大きく見開きます。それから、わめきながらすぐ目をつぶります。それと同時に苦痛の表情が小さな顔に表れます。

赤ん坊は本当に目が見えないのでしょうか。いいえ、盲目な人たちによって目がつぶされるのです。

 

次に、耳が聞こえないと思っています。実際は母親のからだの中にいるとき、いろんな音が子どもに届きます。しかしまだ子どもが水のなかに浸っているため、音はすべてフィルターにかけられ、おさえられた穏やかな、鈍い音に過ぎません。

ところが、出産になり波から出てくると、割れんばかりのごう音にあふれています。わたしたちの声は雷のとどろきのように響きます。しかし分娩室のなかで声をひそめようとする人がいるでしょうか。「しっかり力を入れて。もっと入れて!」まるで御者が馬を叱咤しているようです。

 

それから、分娩の直後にへその緒を切ります。それはひどく残酷な行為です。へその緒が直ちに切断されると、脳から急に酸素が奪われます。計り知れないストレスを作り出し、神経症の芽を植え付けるのです。

子どもが一時的であれ酸素を取れなければ、脳に収縮不可能な傷を残すことになります。ですから自然は、誕生直後の危険なときにへその緒と肺という二つの源から酸素を得られるようにしたのです。誕生直後のまだ数分のあいだ、へその緒を通じて受け取れる酸素は、子どもを酸欠から守ります。そのため本来は、落ち着いて、ゆっくり焦らず呼吸を開始できます。子どもは肺呼吸へ無理なく徐々に移っていきます。

へその緒の脈動が終わるまで無傷に保たれるなら、出産全体が改革されたことになるでしょう。胎盤からの酸素供給が肺呼吸へと移行するのが、ゆっくりと穏やかになされるか、あるいは無惨にもパニックと恐怖のなかでなされるか、それに応じて誕生はやすらぎにみちた目覚めにもなり、悲劇にもなります。

 

また、子どもは生まれるとすぐに足をつかまされて逆さ吊りにされることがあります。その小さなからだは厚い胎脂に覆われていて、ぬるぬるして、すべりやすいためです。子どもは言葉では言い尽くせないほど不安な表情をしています。頭にしがみつく手…これは雷にあった人の顔です。子どもはなんともいえない目眩を体験します。目眩や不安感はこのときの体験の痕跡です。

 

わたしたちは、せめて小さな子どもの肌にやさしく触れているでしょうか。いままで粘膜のやさしい愛撫しか知らなかった赤ん坊の肌は、ささいなことでも身震いします。パイル地のタオル、荒い布、ときにはブラシ…小さな子どもはこの世にやって来て、いばらのなかを転げまわり、泣きわめきます。そしてわたしたちは大笑いするのです。

その上、暖かくて柔らかい母親の胎内から出てきた赤ん坊を、固くて氷のように冷たい金属の体重計に乗せるのです。その冷たさは炎と同じように無惨にも赤ん坊を焼きつくします。叫び声は一段とけたたましくなりますが、こんなに小さな赤ん坊が大きな音を立てられることに周囲の大人は感激し、歓声をあげます。

 

そして今度は目薬です。赤ん坊は抵抗し、もがきます。しかし、大人の方が強く、偉いのです。光で目を攻撃するだけでは物足りないのです。無理矢理、やわらかい瞼を開き、燃えるような液を二、三滴落とします…

 

さらに、服を身にまとわされます。大人の都合のために、我慢して窮屈な、たくさんの結び目のある服をまとわねばなりません。

 

また、赤ん坊をあおむけに寝かせたりもします。何ヶ月ものあいだ曲げられていた背骨が、いきなりまっすぐに伸ばされてしまい、それはひどく衝撃的なことです。一番良いのは腕と足を曲げたまま、赤ん坊をうつぶせにしておなかの上に乗せることです。これは赤ん坊が以前馴染んでいた体位です。この姿勢から、赤ん坊は自分のテンポで開いたり、伸びたりできます。

 

わたしたちは考えます。「赤ん坊に対して、どのような準備をすればよいのか?」

準備が必要なのは、赤ん坊ではなくわたしたちの方です。わたしたちが眼を開き、愚かなことをやめなくてはならないのです。

 

恋人たちは愛し合うとき、どうしますか。言葉を使わないで、ただふれあいます。そのために、明かりを消すか、目を閉じます。暗闇のなかで、静かに抱き合います。話をするのは彼らの手です。それを理解するのは、からだです。

赤ん坊にもこのように話かけるのです。しなやかな手で、注意深い手で、やさしい手で。子どもの呼吸にリズムをあわせて、ゆっくり動く手で…

動物は子どもが生まれるとすぐ、その全身をなめまわします。それは小さな子どもが生き延びる上で、大変重要なことです。わたしたちの場合はまず、手をそのままじっと赤ん坊に置いておきます。愛情のこもった注意深い手に、赤ん坊はその身を明け渡し、自分を開きます。その後、赤ん坊の背中をもむのです。赤ん坊は子宮収縮のリズムと力、その穏やかな動き、力強さ、連続性をふたたび発見します。

愛するとは境界を消し去り、きずを癒し、へだたりをなくすことではないでしょうか。

 

まずは恋人たちの真似をして、明かりを消します。サーチライトに照らされた光の中で、愛の営みなどできるでしょうか。うす暗いとどれだけ安らぐでしょう。母親もうす明かりの方がリラックスできます。

 

次に、黙って静かにしていればよいのです。大人にはこれは思いのほか難しいのです。誰かと一緒にいるとき黙っていると、落ち着かなくなるので沈黙を守れません。沈黙するとは、他者に注意を向ける事であり、言葉を超えたものに耳を傾け、それを感じ取る事であると理解しなくてはなりません。

母親は醒めていて、意識的でなければなりません。赤ん坊は聞くことができ、耳が敏感で容易に傷つくことをよく知っていなければなりません。

それは、出産を助ける人、助産士や産科医などにとっても等しく重要なことです。「しっかり力を入れて。もっと強く」という励ましの言葉が、小さな声でささやかれることはまずありません。このようは大きなかけ声は母親たちを助けるより、むしろ動転させてしまいます。声をひそめて話しかけると、彼女たちはリラックスします。それは叫び声よりも効果的です。

 

薄暗さと静寂、そしてさらに必要なのは忍耐です。きわめてゆっくり動くことを学ばなければなりません。

わたしたちの時間と赤ん坊の時間には、ほとんど共通するものがありません。赤ん坊と出会うためには、荒れ狂ったように走り去る自分の時間から外に出なければなりません。

赤ん坊を夢中になって見つめます。すっかり心が満たされます。知識に頼ることもなく、先入観もありません。まったく無垢な目で新鮮に見つめるのです。わたしたちが赤ん坊になりきるのです。誕生を再体験し、赤ん坊の純粋さを再発見するのです。

 

赤ん坊を自分のためでなく、子どものために愛するのです。

女性が「わたしは“この子の”母親なの」と感じるなら、すばらしいことです。

しかし、「これは“わたしの”子どもなの」と感じるなら、そうではありません。

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