たいていは、いちばん近い氏神様のところにお参りに行く。
鎮守の森は、我がマンション敷地の斜向かいにある。
普段、この鎮守の森のご厄介になっていると思えば、
お礼の意味を込めて、お参りしないわけにはいかない。
この神社の位置は、最寄り駅からひたすら上り坂。
車ならば苦ではないが、人が歩いて登るのは、少々酷でもある。
そんな難所なのに初詣客は意外に多い。
坂を上り詰めたところにある狭い参道への入口となる鳥居前には、しっかり列ができている。
にもかかわらず、参道の前には出店も商店もない。
なんの変哲もない住宅が無言のまま佇んでいる。
当方は、近さの特権で、日が落ちてゆっくりとした時間にお参りに行くことに決めている。
もうその頃は閑散として、社務所の明かりだけが眩しく光っている。
ただ、数年前にお参りに行こうとすると、イノシシが先に参道に入っていくのを目撃した。
あの細い参道を猪突猛進されるとひとたまりもない。
さすがに、その年はお参り自粛とあいなった。
このあたりは、住宅街ではあるがイノシシの出没は当然の地域。
獰猛とされるイノシシだが、地域の住民とは争うことなく同居状態を続けている。

いざ、お参りすると、神社には「厄祓い」の年齢について書かれていた。
今年は、幸いと「厄」とは関係ない年のようだ。
だけども、いい歳になると、毎年が「厄年」のような気分になる。
我が知人は不運続きで「お祓いをしたい」と言っていたが、「お祓い」で、
すっきりとリセットなどできるものだろうか?などと思ったりする。
「お祓い」という発想は、他国で聞くことはない。
それでも、榊(さかき)か御幣(ごへい)で祓ってもらうと、
どこか、憑(つ)き物や穢(けが)れが祓われたような気持ちになる。
日本語の語源を辿ってみると「お祓い」と「支払い」は同じ語源だという。
物を手に入れる行為は、それに付着している恨みや穢れも同時に受け入れることになる。
それでは、物を得ることで、かえって害を及ぼすことになるので、
その付着物を取り去る行為が「支払う」ということらしい。
モノを頂戴して「払う」ことがなければ、「お祓い」が済んでないことになる。
支払いをすることで憑き物が取れる、そんな発想があるようだ。
たしかに「完済」すると、どこかスッキリした気分になりそうだ。
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