間違いなくこんなに暑くは無かったと冷静に思い出している。

子供のころの夏はこれほど暑いと感じた事は無かった。

暑いよりも夕刻になると涼しくなったことの方が思い出される。

ニイニイゼミやアブラゼミが鳴き止み、ヒグラシが鳴く夕刻になると少し肌寒いとさえ感じたものだ。

それが今はどうだろう、一日中、朝も昼も夜もいつでも外に出ると暑くて危険なほど、ねっとりした汗が吹き出てくる(それはヂヂイだから)。

爽やかな涼しい風が吹き抜けた縁側の風景はもう何処に行っても無い。

悪意を持ったかのようなエンタルピーが充満している猛暑の夏は人が生活をするべきところでは無くなってしまった。

人はそれに挑戦するかのように冷房の効いた空間に閉じこもり余計に地球を熱くする。

これは多分に人間がしでかしたことの結果なんだろうなと思うと、もっと早くにどうにかならなかったものか、時間を戻すことは出来ないものか、やり直しが出来るなら私は何でも我慢して見せると思っている。

引き返せないポイントを過ぎてしまったようにも思うが、それは私に良く有る見当違いであって欲しい。

そんな風に思っているのですよ。

せめて日本人だけでもそう考えて生きて欲しいと思っているのですよ地球は一個ですけれど。

健康に生きる努力をします。

贅沢はしません。

争いごとはしません。

無駄なことはしません。

節約をします。

エネルギーは極力消費しません。

弱い者を見捨てません。

どれもが今真逆のことがおこなわれているのです。

3.11の後の仙台のホテルで、余震に怯えながらCMの消えたテレビを見て思った、

あのときの気持ちを忘れてはいけないと思うのです。

日本人の本当の生き方にもう一度戻ろうではありませんか。

原発も同じことです。

後で後悔するようなことはやめておくのが本当の日本人ではないでしょうか。

 

雨にも負けず
風にも負けず
雪にも夏の暑さにも負けぬ
丈夫な体を持ち
欲はなく
決していからず
いつも静かに笑っている
一日に玄米四合と
味噌と少しの野菜を食べ
あらゆることを
自分を勘定に入れずに
よく見聞きしわかり
そして忘れず
野原の松の林の陰の
小さなかやぶきの小屋にいて
東に病気の子供あれば
行って看病してやり
西に疲れた母あれば
行ってその稲の束を負い
南に死にそうな人あれば
行って怖がらなくてもいいと言い
北に喧嘩や訴訟があれば
つまらないからやめろと言い
日照りのときは涙を流し
寒さの夏はオロオロ歩き
みんなにでくのぼうと呼ばれ
褒められもせず
苦にもされず
そういう者に
私はなりたい

         宮沢賢治の詩