【父は今年百歳になる稀なる長寿の人
その脳はいまだ性能を維持している
認知症の人が身体機能を維持しながら脳が不調になるのとは逆に、父は脳の送る指令を身体が遂行してくれない
神は完全な設計をしたつもりであろうが、わずか100年で身体機能は尽きた
生物の中では長命な人間であるが百歳にもなるとほぼ寝たきりとなる
父もベッドと車椅子の半々生活である
ベッドでは頭が冴えて眠れない
意識が薄れた寝たきりの人とは又違う苦しみがある
「少し休む」と言ってベッドに移って又すぐに「車椅子に移る」と言う
楽な睡眠に入るということはまず無い
自走式車椅子は背もたれが倒れず窮屈で決して楽なものではない
駆動輪を回す手の力は弱々しく思うようには動けない
ステップを外して足で漕いでみても上手く動けない
もちろん立てないしベッドに移ることもポータブルトイレに座ることも自力では出来ない
それでも愚痴一つ言わず生きている】
約一年前の下書きが残っていた。
私は父の介護にくたびれ果てていた。
「やめておけば良かった」と後悔していた。
母が入院し死を待つだけとなったとき、父を自宅に戻し介護をしようと血迷ってしまった。
その無謀さに気づいてから約3ヶ月、私の精神が壊れた。
つくづく私の精神は弱いことを思い知った。
妻のときもそうだった。
過酷な現実に遭遇したとき私の精神はすぐに根を上げてしまう。
40歳のころ業務の過酷さに負けて精神病棟に逃げ込んだ。
60歳のころ妻の介護に絶望しアルコールに逃げた。
残酷な難病で動けない妻に心ない言葉を浴びせてしまった。
そして又、父を裏切ってしまった。
施設に連れられていく父の姿を見て私は自分の不甲斐なさに涙を流した。
父を施設に放り出して2日後に母が死んだ。
母は晩年私と意思を通じることも無いまま逝ってしまった。
悲しい死ではなかった。
今年になって妻の七回忌、母の一周忌と続けて終えたところである。
妻はいまでも私の夢に現われる。
夢の中の妻は天使のようになっている。
私が心の中に創り上げてしまったのだろう。
母は夢にも現われないが私との関係は希薄だったかも知れない。
父は今年百一歳を迎えることになるだろう。
面会に行くたびに「なかなか死ねんなあ」と人ごとのようにいう。