米国で

留学生の服部剛史君がハロウィンの日に銃で殺されて20年が経った。

この事件は撃ったほうに明確な殺意が無かった、逆に恐怖からの自己防衛であったように記憶しているが、銃社会の怖さを知らしめた。

以降ずっとご両親が銃規制運動に尽力されているが米国民の手から銃は無くならない。

そこには銃に頼ってしまう社会が出来上がっている。

護身が目的なのだが銃ほど簡単に人を殺せてしまう道具は無い。

刃物で人を殺すことを想像してみると良いが修羅場が浮かぶはずだ、銃なら離れた場所で引き金を引くだけだ。

タバコを吸いながら人を殺せる、西部劇のように。

とんでもなく危ない道具なのだ。

無くなると良いが無くならないように思える。

 

 ウクライナで

正確に照準できるはずの兵器を使いながら何故ロシア軍にはウクライナの民間人を狙ったような誤爆攻撃が起こるのか。

病院やアパートなど民間施設を破壊している見境のない状況を見ると、そのうち核兵器も使いかねないのではと悪夢の連想をさせられる。

プーチン自身が細かい指示を出しているとは思わないし誤爆原因が軍の統制が取れていないためだとしても、責任者であるプーチンは国際法違反の蛮行の罪で裁かれなければならない。

ロシア国民がプーチンを裁けないのなら、国際社会としては公に実行できないが一発の銃弾に期待したくもなってくる。

銃は簡単に人を葬り去ることが可能だ。

権力者はその地位を脅かす事に病的な過敏症になりやすい。

強大な権力を持った者が罹りがちな困った病気は、早く手立てをしたほうが良いだろう。

一発の銃弾は戦争を起こし得るが又収めることもある。

 

 日本で

合法的に銃を持てない日本でも稀に銃による惨劇は起こる。

例の事件の犯人の青年は目的を達した、そして思わなかった以上の成果も得たようだ。

国民に犯人への同情の念が生まれたのは事実だ。

 

 限界集落で

銃ではなく獣に苦しむ村人には猟師だけが頼れる人になる。

「猿を撃ってくれ」と、駆除をお願いするが、

「猿は撃ち辛いんだわ」と、1・2頭でお茶を濁される。

狡猾なカラスはエアガンを取りに行こうと考えた瞬間に逃げ去っていく。

誰しも安易な殺生はしたくないのだが、そんなことを言っておれない状況も有るのだ。