澄んだ水と濁った水。
二つの川の水の色が余りにも違うので何故だろう?と不思議に思ったが良く考えれば当然のことだった。
濁った川の方にはダムが有るから大雨による流出土砂は先ずダムに堆積する。
濁りは徐々に薄まっていくがダムの無い川のように素早く元の澄んだ色には戻れない。
ダムにはそのような土砂が長年にわたって堆積してしまう宿命が有る。
ダムの諸元にある総貯水容量と有効貯水容量の差はそのような堆積物容量によるものだ。
発電ダムの場合(ほとんどのダムは発電をしている)取水口から堆積物土砂を吸わないようにしなければならない。
導水管や発電用水車がダメージを受けるからだ、と言っても完全に土砂の吸込みを防げるものではない。
大規模な洪水のときには発電を止める決定も必要になるのではないか。
暴風のときに風力発電が止まるのと同じような皮肉なことが水力発電でも起ると考えられる。
そういえば風力発電の風車に鳥が当たるという稀な事象について問題視する人は居るが、水力発電の水車に魚が吸込まれるということは問題視されないのか?
もし鳥や魚の命を一番とする社会になるとクリーンエネルギー代表格の水力や風力はその立場が悪くなってくる。
鳥がぶつかっても死なない風車や魚が吸込まれても死なない水車というのは作り得るだろうけれど、残念ながら現在それを真っ先に考えるほどに鳥や魚の密度は濃くはない。
同じようにダムに堆積した膨大な土砂をしゅんせつして湖底の風景を取り戻そうとするノスタルジアはエメラルドグリーンの湖面に魅せられた大勢の人々にとってはどうでもよいことだ。
花子、「一度見てみたいわね湖底の風景を、失望するでしょうね」
太郎、「同感、無くした風景だからこそ綺麗なんだろう」