妻が亡くなって1年が経った。
私には長い1年だったように思う。
妻は多系統萎縮症(MSA)という稀なる難病によって亡くなった。
私は退職してから2年半、妻の介護に携わってきたがそれは正直絶望的で苦しかった。
十万人に数人という稀なる病気について人は分かってくれないだろう、知らないことが普通なのだ。
妻の病気のことを聞かれたときには「意識は有るのに最後は目だけしか動かせなくなる病気」と答えて疑似体験してもらうことにしていた。
脊髄小脳変性症(SCD)、多系統萎縮症(MSA)、筋萎縮性側索硬化症(ALS)、いずれも非常に稀な発症率の良く似た症状の病気である。
多機能細胞などでの研究は行われているが現在の医学ではどうにもならない死の病である。
「誰しもが通る道ではない」そう思うと私自身の精神も変調をきたしてしまった。
同病の人の闘病生活ブログを見て励まされたりしていたが、この1年で更新が止まったり亡くなられたり中には安楽死を選んだ方もいた。
残酷非情な病気である、このような病気が完治可能になり、誰の身にも絶望が降りかからないようにと願って止まない。
ここで話しておかなければと思うことが一つある。
妻は元気なころから月1回フェイシャルエステに通っていた。
それは妻を介護するようになるまで知らなかったことである。
車椅子を押していたとき「絵本を買ってお店に届けて」と言われて知ることになる。
妻が車椅子生活になってからエステは自宅へ出張してもらっていた。
近所の布団屋さんの娘さんで、とても明るい方だった、いつしか私は彼女が来る日を心待ちするようになった。
何回か出張してもらって気心知れた頃、実家の布団屋が店を閉めてしまった(彼女の店はその2階に有った)。
「お父さんが全然仕事をやる気が無いのよ~」そのとき彼女は笑ってそう言った。
そして又何回か後、
「お母さんが得体の知れない病気にかかっていて最近やっと病名が判明したの」
その病気は百万人に数人しか発症しないという途方も無く稀な病気で難病指定もされていないという。
妻の病気は難病指定を受けており社会からの各種加護を受けられる、特定疾病として65歳以下でも介護保険の適用も受けられる。
彼女の母親の場合患者数の少さから研究も進まず社会の加護もない。
そのとき私は彼女の父親が気力を無くし憔悴してしまった訳を理解した。
そして次に会ったとき、
「お母さんの病気を治するために一家全員こっち(Y市)を引き払って東京に引っ越すことにしたの」
「治るかどうか分からないけど治療をしてくれる病院が東京に一つだけあるの」
その病院がどのようなものであるのか私は聞かなかった。
彼女には5人の子供がいると知っていたので良く思いきったものだねと口にすると。
「子供たちからはママ友にいじめられないようにねって言われたと笑った。
私はこの一家の家族愛と行動力に脱帽した。
母親の病気を治したい一心が家族全員の生活をすべてリセットさせたのだ。
妻の病気も稀なる不運な確率だが、もっとケタ違いの不運を受け止め全力で克服しようと一致団結して動いたのだ。
私は彼女に申し訳ないが、なんとなく、根拠も無く、一家の行動が報われ無いような気がしてならなかった。
妻が亡くなる前日に彼女から賀状が届いていた。
彼女は現在赤坂で新規に店を構えて順調そうであった。
一家のスナップ写真も笑顔であった。
しかし母親は・・悲観的コメントの他には詳しくは知る由も無い。
この1年、
絶えず私は自問する毎日であった。
妻の病気に対して、
私は諦めていなかったか?全力を出したのだろうか・・。
いくら考えても答えは出ずに堂々巡りである。
しかしもうやめよう。
彼女の店と布団屋さんが有った敷地には高層マンションが伸びている。
私も前に進もう。