自分が死んだらお墓に入るか?

どうでもよい。

残った者に好きにして貰えば良いと思ってる。

骨は田舎の蜜柑の根元に撒いてくれても良いし、

錦三の道端のゴミ捨て場に捨ててもらっても良い。

妻は綺麗な海に撒いてくれと言ったのでとびきり綺麗な海に散骨してきた。

それでも妻は私の立場を酌んでくれて妥協した、一部分骨して田舎の墓にも入っているが魂は洋を回遊している。

仏教による死者への弔い事は永遠と言える年月に渡って行われていく。

毎日線香を焚き仏壇を拝んでは、彼岸だ、お盆だ、1周期だ50回忌だと坊主に御布施を施していく。

仏教の教えなど誰も解していない、只形式上の事を行っているだけだ。

大勢の戦争未亡人は苦難の年月を経て、骨も形見も入っていない夫の墓に戻っていったのだろうか。

人生の閉め方は綺麗さっぱり無になって終わりたい。

何にも無し。

楽しみも苦しみも煩わしさも何にも無しが死後の世界。

まつり上げて線香焚いてチンチンうるさくしないでくれ。

 

昨日の断酒会で私と同じ頃に奥様を亡くした方が語った。

「毎日毎日、1人でご飯作って、洗濯して、掃除して、もう面倒でしょうがない」

共感とともに友情まで涌いたね。

生きることは面倒なことだ。

それでも、

「散歩は毎日1万歩してる」と、

私の倍も歩いている死には遠い人だわ。