旬の筍(たけのこ)である。
竹の子採りとは言わず、竹の子掘りと言う。
近くの竹林にそこの老主と一緒に掘りに行く。
時期尚早であるらしく見当たらない。
いや違う、今こそ好機だそうだ。
掘るのであるから筍はまだ地中にあるのだ。
地上にすがたを見せた筍は既に筍ではないそうだ。
落ち葉に覆われた地べたに僅かな膨らみを見つけて掘る。
竹は根をはり巡らせているので土壌は荒い繊維状で掘りにくい。
拳程度の筍を数個頂戴する。
生でも食えそうなやわらかな感触。
ありふれた食材で旬を感じてみる。
皮を剝いて自然の造形をじっくり見る。
茹でて冷ましてガス火で炙って焦げ目をつけて、
竹皮の器をこしらえ少量を盛り付けて山椒と味噌を添える。
旬の魚も主采に加えて少し贅沢を装う。
山で見つけた名も知らぬ野草を観賞しつつ、帰り道に折ってきた小枝を削って箸に使う。
酒は地所の良心酒造の生をキリリと冷やしてやる、う~む、ささやかだが幸せを感じる一時だ。
子供の頃、竹の子は時節には主食であった、大鍋で大量に茹でられた竹の子は大きく竹そのもののあり様。
なんでも長時間煮れば食い物に化けてしまうのだと思った。
1回で食べきれるはずもなく、毎回食卓にあって恐れたものです。
老域に近づき、それがどういう訳か懐かしくなってきた。
硬くガリガリした歯ごたえまで蘇ってきてしまう。
食性が変化したのか、郷愁が作用してくるのか、
時たま良く似た田舎料理に出会うと無作法に箸が出過ぎて困る。
私は竹のように柔軟性を持った人間には成れなかったが、
融通のきかない脳細胞には竹の繊維が混ざっているかも知れない。
共に栄養価は無いと思われるので効もなく害もなく・・えっ違う?害・・・
エジソンが日本の竹の炭素に電気の火を灯したそうです。
エジソンの時代は直流発電であったというのどかな世でした。
電気のありがたみを知る人ばかりだったでしょう。
それから現在の電化の世まではあっと言う間でした。
竹の根が張り巡らされるように送電網は地を覆い尽くし、
美味しい筍だけではなく害ある筍もいっぱい生えました。
電気の無い生き方さえも忘れ去ってしまった現在です。
人間は早まりすぎた覚えごとを修正する必要に迫られています。
神頼みが通用せぬことは皆が知っています。
昔から地震のときは竹藪に逃げろと言われています、
柔軟性に満ちた竹の強さを知ってのことです。
私たちも固い頭を割って柔軟な思考をせねばならぬ時期でしょう。