友人に聞いたお話ですヨ
氏は語る、
若い頃、既にカイシャは今と同じ状況にあったのですよ。
カイシャを信じていたい性善説と、逆の性悪説は拮抗して実在していました。
多数はカイシャに属していれば安心だろうと考えていたのですが、
自分達が考える会社と実際のカイシャには温度差があったのです。
今もそうだが当時もカイシャには幼稚な約束事が多く、私達を萎えさせていた。
能力に応じてスマートな仕事の出来る体制では無かった。
不細工かつ無駄に地球を温めているような仕事でした。
特にカイシャは事故に対して敏感で、危険度の高い車両事故では当事者を罪人扱いしてきた。
ある同僚の言葉を忘れない、彼は、
「毎日乗らされている業務車両がちゃんと保険に加入しているのかわからない、私達に安全保障は有るのだろうか」
と、言った。
運転の上手な彼からこんな言葉が出る。
カイシャを対等視するスタンスが彼にはあったのです。
「君の意見には共感しかねる、カイシャがそんなことをする筈がないだろう」という多数派に対し彼は言った。
「いまだに僕は自分の目で保険証を見たことは無い」
事実の前に反論は色褪せた。
信頼関係とは相互が確認し理解しあってのことで成り立ち、一方的に押しつけられるべきものではない。
意味を説かず、真実をぼかし、隠しごとをするカイシャに社員の信頼が得られる筈がない。
企業とは社会が必要にして在るもので、社会が必要としない業は存在してはならない。
仕事というものはカイシャの為でも個人の為でもなく、社会が必要とするが故にあるのです。
これが正論だと思う。
利益を得ることが企業の第一目的だと、近頃の教科書には嘘が書いてあって困っている。
そう言って友人はアルコールで自分をおさえた。
彼のカイシャは今も存続しているらしいのだが。
能力に応じて働き必要に応じて受け取るという共産主義の理念ではないが、
人間が考える理想の社会は自然摂理の下では成り立ち難く、
一種、弱肉強食のような単純な社会構造の世の中なのですが、
働くことの意味や喜びは自分自身で感じておりたいと思う訳です。