いやーこんちは

 

大谷翔平の移籍先が決まりましたね。まさかエンゼルス(LAA)だとは予想外。まあ有力視されていたパドレス(SD)は不人気だし弱すぎるし、マリナーズ(SEA)にしても強くないし人気もあんまないし将来的に強くなる見通しもほぼないから行かなくてよかったのが本音かな。

LAAは何と言ってもトラウトよね、あれと共演できるのは大谷くんにとってももすごいことだと思う。

にしてもLAAにはプホルスというMLB2000年代最高のスターがいるのだが今や彼もとんでもない死刑囚(某サイトではMLBで巨額契約→不良債権化した選手のことを「死刑囚」と呼ぶ)になってしまっていて悲しい。10年契約だけどもう1年目から絶賛劣化しまくりだし今やDHでwar(野球の指標の一つ。数値が高いほど良い。マイナスは論外)がマイナスでOPSも6割代。しかも10年契約の他に引退後も10年間球団の顔として働き、高額の給料をもらう条項が含まれていて、ファンからすると入団してからクソも活躍してないのに引退してからさらに10年間も死刑囚の顔を見なくてはいけないとかどんな気持ちなんだろうね。

 

 

 

 

さて今日は「暦」の話を少ししようかと。

こういうテーマ的なものの出題は傾向的に難関大学で見られ、まあ点差をつけるためなんじゃないかと思われる。ある程度のレベルになるとありきたりの政治史とかじゃ点差つかんしね。

てことで(多分!)他にはどこにもない「暦」に関してのことを書いていこうと思うんだ(誰が見てるんだよこんなブログw)

できるだけ(大学受験にとって)無駄なとこは省きつつ、授業では話しきれないとこを徒然と書いていきますか

 

「暦」については以前の山川の教科書にはコラムが載っていたのだが、数年前に改定され、教科書が新しくなってから何故か削除されている。その代わりに考古学の分野の年輪年代やら放射性炭素の測定法がコラム化されており、確か慶應義塾大学の文学部が改定された初年度にモロにそのコラムから出題し、その教科書を持っていない浪人生を虐殺したという話があるとかないとか(けど改定教科書持ってた現役生が無条件にできるような難易度ではとてもではなかったがw)

 

 

まず受験日本史で「暦」が初めて出てくるのは恐らく7世紀初め602年に百済の観勒が来日をして、暦などを伝えている。聖徳太子の時代だね。

ちなみに迷わす要因として同時期に高句麗の曇徴が墨や紙の技法を伝えていて、覚える側としては「百済の観勒、暦など」「高句麗の曇徴、墨、紙など」まで覚えなくてはいけない。

簡単なことだが出題側は正誤問題でよく入れ替えてくる。

どうでもいいことだが気になる人がいるかもしれないのでちらっというがこの暦ははっきりとはわからないが当時中国で使われていた元嘉暦あたりだろう、まあこれは絶対出題されないけど

 

最初に説明すべきだったのだが「暦」は大きく分けて3つある。太陽暦、太陰太陽暦、太陰暦の3つである。「え、じゃあ宣明暦やら貞享暦とかは?」と思うがそれは全部「太陰太陽暦」の一部である。日本は古代から明治まで一貫して「太陰太陽暦」を採用していて、明治から現在は「太陽暦(グレゴリオ暦)」である。

太陰太陽暦の問題としては1ヶ月が29日か30日しかなく、一年が約354日しかない。太陽暦に比べると約11日少ない計算である。3年で1ヶ月分もずれてしまう。

そこでそれを調整するために現代でいう「閏年」ならぬ「閏月」があり、なんとその「閏月」の年は一年が13ヶ月ある。しかもその頻度は19年に7回と結構多い。

余談だがだから厳密にいうなら現代の一般的にいう「閏年」なるものは数日増えるものなので「閏日」というのが正確なのである。まあ「閏日がある年」で「閏年」と言えば合ってるのか笑

話を戻すと太陰太陽暦の閏月によって困る人たちが出てくる、そう、農作業の人たちだ。

まあだから当時の農民達は「二十四節気」を使っていたのだが。大丈夫、解説しますよ。

今でもよく聞く「冬至」「春分」「夏至」「秋分」やらが二十四節気。

1年を24等分(1ヶ月2つの計算)にしていた。例えば1月は「立春」「雨水」2月は「啓蟄」「春分」・・・といった具合である。

果物で「ハッサク」というのがあるが、あれは「八朔」からきている。「八朔」とは旧暦(太陰太陽暦)の8月1日のことで現在のグレゴリオ暦に当てはめると8月下旬から9月の頭。旧暦8月1日頃から食べ始めることができることからそのように名付けられたのだが、何故この話をするのかというと、この八朔の話を何年か前の早稲田大学商学部が正誤問題で出題したから。侮れないね

 

太陰暦というのは説明する機会はほぼないけどからここだけで話すが太陰太陽暦から「閏月」の調整を省いた暦法でイスラム圏がメインだったはず。

 

 

 

よしまた話を戻そうwてことで百済の曇徴により「暦」が日本にも伝えられたわけだがここからいくつか変わっていき、9世紀半ば(862年だけど覚えんでいい)に日本と仲が良かった渤海使が伝えた宣明暦が長く定着し、江戸時代まで800年以上も使われた。800年以上続くと宣明暦にもズレが生じ始めて最大で2日分までズレていたそう(たった2日という見方もあるが)。

そういうこともあり江戸時代に直そうという案が出て、当時の最有力候補は明の「大統暦」(元の「授時暦」と全く同じだが元から明になり、名をかえた)をそのまま使うことだったが、安井算哲(渋川春海)が自ら作った貞享暦(宣明暦のズレを元の「授時暦」をもとにして作った暦)の採用を願い出て、ここに初めて日本で作った暦が採用されることになったのである。これを機に、渋川春海は幕府の天文方に任命されている。まあただ、授時暦の知識とかは当時でも関孝和(「発微算法」の著者、センターで出るよね?)に劣ってたという話も残っているが。

安井家は幕府の碁方の家柄で安井算哲(渋川春海)も囲碁をかなり打ってたらしいが残っている記録を見るとほぼ負けている(相手は本因坊なんとかでガチガチのプロだけどね笑)

 

貞享暦からまたいくつかの暦が作られたのだが出題されるのは寛政暦かな。作成をしたのは天文学者の麻田剛立の弟子、天文方の高橋至時と間重富。出題頻度としては高橋至時がほとんどで麻田剛立と間重富は選択肢に出てくるくらいだから頭の片隅に入れるくらいでいいのではないか。

そして高橋至時の息子、高橋景保も幕府の天文方になるのだが有名なシーボルト事件を起こしてしまう。慣れてくると高橋至時、景保どっちが父で息子か忘れやすくなるので注意w

 

そして明治時代になり1873年(明治6年)に太陽暦(グレゴリオ暦)が採用された。

採用するまでの経緯が面白く、前年の明治5年に突然「明治5年は12月2日で終了をし、翌日を12月3日ではなく明治6年1月1日にする」というもの。そう、クリスマスがこの年なくなったのである、リア充ざまあみろ。

これには色々とアレな事情があるらしく、大隈重信によると、この頃は政府財政が圧迫しており、閏月の1872年は13回役人に給料を払わなければならなく、それを回避するためと、旧暦は過去の習わしで休日が異様に多く、新暦の採用で週休制にすることによって、役人の休みを減らすという狙いがあったそう。実際に太陽暦移行の発表の際に「役人に12月分の給料は払わない(だって2日分だけだしね)」と注意書きがされている。

福沢諭吉先生は太陽暦移行決定してすぐに「改暦弁」という本を著し、えらく売れたそうである。「改暦弁」福沢諭吉てどっかの入試で出てたよなぁ、慶應だったかな・・

 

これまた余談だが徴兵告諭、徴兵令というのがあるが、徴兵告諭は明治5年の11月。徴兵令は明治6年の1月。間に太陽暦の導入が挟まっている。

注意は徴兵告諭と徴兵令は同年ではないということ、まあ間が実際は1ヶ月くらいしかないんだけどねw

 

 

最後に一つ、これらとはまた別に具注暦のことについて。

具中暦とは中務省の陰陽寮が作成しておる暦のこと。

毎年、陰陽寮が具中暦を作成し、朝廷に奏進をする。それを平安貴族に配布をして、貴族はそれに日記を書いたりする。

平安時代の日記は、まず開くと日付、干支、その日の吉凶が1行目に書いてある。2、3行目の空欄に自由に色々と書くのだが、これは人によって性格が出る。

例えば藤原道長の「御堂関白記」なんかは字の大きさはバラバラだし、1行目の暦の書いてるとこに平気で書くし、長い日は次の日のページに普通に突っ込んで書いていたりする。字についても誤字脱字がかなり多い。別に道長が痴呆老人で漢字がわからないのではなく、ただ単に直すのが面倒なのだろう。基本的に道長の日記は長く書く日がほとんどない。ある日の日記は

 

於馬腸殿初調薬

 

の7文字のみ。道長の日記でこれは珍しくはない。

ただそれよりも馬腸殿は馬場殿の間違いだし、調薬ではなく調楽である。7文字しか書いてないが(当たり前だが漢文)7字中2字が誤字である。記事の内容は、馬場殿という建物で音楽の調楽(練習)が初まった、という単純なもの。

 

これに対して藤原実資の「小右記」なんかは字はしっかりと綺麗に並べられているし、量自体も1日何百字がスタンダードである。さすがは賢人右府

 

 

いやあ、書いた書いた。もし見てる受験生なんかがいるなら、こんなのは昼飯か晩飯でも食べながらか、電車の中ででも見なさいな。少しでも参考になればお兄さんうれCーーーーー