死んだほうがマシ

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よく私は「死んだほうがマシ」と思う。

「死んだ」ことはもちろんないので、

これは、具体的なイメージをいだいていっているのではなく、

心が「勢い」で叫んでいるものだとおもう。

だが、そう知ってはいても、やはり私はしょっちゅう「死んだほうがマシ」と言う。

たまに「生きてる価値ねえ~」というセリフになることもある。

声に出すことも出さないこともある。

声に出すのは特定の親しい人物の前か、一人のときである。

 

「死んだほうがマシ」というのは

「嘆き」であるということができようが、あまりレベルの高い嘆きだとはいえない。

(まあ、嘆きというのは負の感情グループの「愚痴」さんの友達なので、

レベルがどうこうだ、ということではないだろうが)。

 

「死んだほうがマシ」というのは、当然

「生きているより」または「こうして生きているより」という

比較の対象が省略されている発言である。

省略されているのはそれがただの嘆きだからである。

比較する意味はないということだ。

速く結論のみを吐き出してしましたいだけだからだ。

まごまごしていると支障があるからだ。

 

なにか小難しい主張や、説得をしたいのではなく、

単に「死んだほうがマシ」と吐いて

絶望や苦しみを表出して捨ててしまいたいだけなのだろう。

 

よくよく考えれば

自分を生かしているのは「命」であって

または命があって自分が思考したり認識したりするのであって、

命の上に乗って「死んだほうがマシ」というのは

成り立たない方程式である。

発言しているのは命ではなく、自我とか意識と呼ばれるものなのだから。

 

この自我が自我を否定したり

悲鳴を上げているだけだということに

本当は感づいているのだ。

 

命はいつも「生きたい」と望んでいて

生きる道を探り続けていると思う。

生きることが苦しければ

命は勝手に死を選ぶこともある。

 

命があること事自体が

私にとって、生きたいということと一体で

生き続けることを最上の価値としているに違いない、と私は思う。

 

しかるに、「死んだほうがマシ」という私の自我は

本当は何かから逃げたいだけで

逃げることで生きやすくしたいだけなのかもしれない。

だから「死んだほうがマシ」という自我を

私は適当に無視する。

 

「死んだほうがマシ」という私の言葉を聞いたら

がっかりする人や怒る人もたぶんいるだろう。 

人は、人に、生きて、貢献や罪滅ぼしをしてほしいと願っているのではないか。

 

そういう私も「死んだほうがマシ」と言っている友人がいれば

がっかりしたり、怒ったりするだろう。

励ましたりすると思う。

 

私はよく自分を「万死に値する」と思う。

それくらい人に迷惑をかけてきたと思う。

迷惑をかけたり、人にいろいろとしてもらったり、

そういうものを全部お金で返すとしたらどうなるか。

このあいだ計算してみた。

 

計算したら30億円を超えていた。

もちろんお金には代えられないものは除いた数字だ。

 

生きているということは借りを作ること

生きているということはその借りを返していくこと

誰かに借りたら誰かに返そう

誰かにそうしてもらったように誰かにそうしてあげよう

 

これはうろ覚えだが、永六輔さんの歌詞。

中学生の時に一度聴いて鮮明に記憶に焼き付いた。

 

死んでる場合じゃない!

 

命さんが生きようとしている限り

嘆きを発しつつも

返していくという苦行は続けなければ。

苦行の果てになにもないとしても。

 

それが生きることかもしれない。

思いがけずいいこともあるかもしれない。

 

南武線の踏切

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  • ”死んだほうがマシ”

    今日は、リウマチの痛みを加齢の痛みと一緒くたにして年をとればみんなあちこち痛いわよと 職場の人に言われた だから、病気の話なんてしなければいいんだでも、しないとならないときもある生きるために そうなの、死んだほうがマシ!って思うけどその苦しい状況から逃れて生きる場所を探したいだけ…

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    2017-08-08 22:20:33

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