小三治が亡くなって、もう現役で聴きたい噺家は一人もいないな。
ニュースを聞いて、「昭和の落語が終わった」と思ったけれど、これはもしかすると昭和どころではなく、落語自体の終わりかもしれない。
だってこれから僕が生きている間に、生きている噺家から小三治以上の落語を聴けるとは思えない。
小三治以上が聴けないんだから、小さんが聴けるわけがない。
志ん朝以上が聴けないんだから、志ん生が聴けるはずがない。
ああ。
藤井聡太のような天才が、突然落語界に現れないとも限らないじゃないか。
いや、現れない。
断じて現れないとまでは言わないが、まず現れない。
将棋界には若き王者・谷川浩司がいて、それを追う天才・羽生善治が現れた。
羽生に続く天才集団の中から選ばれたのが渡辺明であり、その渡辺が名人位に就いた途端、すぐうしろに藤井聡太が迫っている。
谷川浩司以前にも同様の世代交代があった。
藤井聡太は突然生まれたわけではないのだ。
残念ながら今の落語界には谷川も羽生もいない。
森内俊之も藤井猛も久保利明も木村一基も深浦康市も豊島将之もいなくなってしまった。
せいぜいB級2組の噺家がトップであれば、そこに憧れて入門する門弟から名人が生まれるとは思えない。
最近時々思うのだが、芸事や芸術の世界には、進歩を止めて、寧ろ以前より退化しているジャンルが少なくない気がする。
絵画も彫刻も建築も音楽も、「現代」と名のつくものが最高とはとても言えまい。
古典芸能などは当然深刻だ。
昨今「天才」と持ち上げられている講談師もいるが、まだまだ過去の名人上手の域ではない。
落語界には厳しいことを書いたが、僕は本当に悲しいし心配なのだ。
落語を聴いていると笑いごとじゃないと思えてくるんだから皮肉なもんだ。
セブンの壁に現れた横顔は、笑っているのか泣いているのか。