虐待の連鎖と解消の現場から

《“はぎたぬき”のサバイバーによく効くカウンセリング》


虐待は親から子供へと連鎖する。
その核に存在するものは『恨み』。
人間はこの感情と実に縁が深い生き物である。
人間は『恨み』を好きなだけ引きずる。

『この恨み晴らさでおくべきか_』
『おまえにこれだけのことをされたから仕返しをお"お"お"_』

この一言のために、ありとあらゆる正義と善の言葉が動員されるのは、人の身近な生活においてもわかりやすい。
人間とはそういうことをするものなのだ。
文化的創造活動の一面には、その地面に恨みが埋められている。
人間は恨むのも好きだが、文化はもっと好きだ。
だから好き勝手に言い換えをして、恨みの『外見』は否が応でも立派に見えるように作り替えられる。
それは『良いこと』だ。



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言霊は普遍。
命とともにある。
人はそこまで恨むことが好きなのである。
30年前のことでも50年前のことでも、
あるいは100年以上前のことでも
『オマエのせいでオレハあの時よくも…』といい続けることが出来る。
『お前ら子々孫々不幸になれ!』この恨みが起動したらそのスケールは何百年単位になるだろう。
これが人間である。
人はその死によって、人としての存在が断続されることはない。
だから、
《恨みお買い上げ、チーん!_無意識の奥底へレシート記録完了》の自然な処理工程により、

『誰かの恨みを買ってない人間』

なんかいないのだ。
そのために人が言葉を覚えた太古の昔から、
人は信仰によって『善く生きるべし』を拠り所としてきたはずなのに、
全く昨今の体たらくときたら…
人間の歴史の成分に恨みがあると考えたら、
毎日の生きる行為の繰り返しから自分自身が得られるものは多い。

『祟り』はこのダークサイドのフォース『恨みによって汚された人生』の一面に過ぎない。
そして人が恨みを好むのは、誰かを恨めば、
自分が『オマエヲ許さない!=格好いい言葉』を言えてる気分になれるからだ。

ここで、シンプルだが大切なまとめを記しておく。
恨みや怒りを簡単に消してしまうことは無理だ。
しかしそれらは『害をなす心の毒』なので、それらを消し去る継続的努力は必要。

そのノウハウはこれ!『文化』
『文化は言い換えと工夫の積み重ね』である。
それは苦しむためにあるものではない。

楽しむためにあるものだ。

しかめっ面をやめられなければアートは死ぬ。
しかめっ面をやめればアートは生きる。
『しかめっ面』も『アート』も自分の別名でしかない。そのすぐ近くに《自分の恨み》も転がっている。
生きることが四苦八苦であるならば、
常楽我浄は常に目指すことの出来る陽光溢れる目的地。
楽しむことは歩き続けること。
そして生きることとともに楽しみがある。
同時に喜怒哀楽怨憎会苦もまたその身体から離れることはなかなか叶わないが、
楽しみながら歩き続けることが出来れば光を観る瞬間は多々ある。
怒り、憎しみ、憎悪、嫉妬…そんなものまで楽しみに変えてしまうキーワードは光の中から手に入れることが可能だ。
それを叡知と呼ぶ。
恨みに取り憑かれて唸ることしか出来ない人間にとって、自分のその姿は妖怪じみてくる。
その醜い姿を観じて人の姿を取り戻したいと願うのなら、光に手を合わせることはかけがえない瞬間になるはずだ。


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20240116