LS 1/72 零戦21型 第5版
赤城 零戦21型 機番号「A1-101」のナゾ
LSゼロ戦21型は1980年代に入ると、また箱がもとの大きさに戻りました。
箱絵はハワイ真珠湾攻撃の南雲機動部隊上空を飛ぶ、
赤城戦闘機隊「A1-101」です。
世界初そして当時世界最強の機動部隊。その旗艦戦闘機隊。日本海軍のいわば最強戦闘機隊。
1942年のミッドウェーまでがゼロ戦最強の時代でした。
はじめて店頭で見た時は「ああ、また中身そのままの新箱か。箱絵背景に機動部隊が描かれていてちょっとかっこいいかな。」と感じたくらいで、別に何の疑問も抱きませんでした。
しかし、今あらためてながめると・・
一飛曹が中隊長?
(1個小隊3機。中隊長は3個小隊9機を指揮)
太平洋戦争初期 赤城戦闘機隊の識別帯
A1-101の混乱
この機番号は真珠湾攻撃隊第2波、赤城制空隊として出撃した木村惟夫(惟雄・ノブオ)一飛曹の搭乗機です。現在は色々資料があるので、ちょっと調べてみました。
1941年12月8日の真珠湾攻撃の時の画像に写ってます。
左手前がA1-101号機です。拡大すると気化器空気取入口に101が記入されてます。
第1波攻撃隊は日の出前の午前6時(現地時間)の発艦で、
当時のカメラでは撮影ができなかったため1枚も残ってないそうです。
真珠湾直前の12月6日
赤城艦上で空母直衛のため甲板上に待機するA1-101
もう1枚、A1-101の写真
真珠湾では阿部大尉は第2波攻撃隊(生還)。
結局・・
ハワイ攻撃時のA1-101号機は横線なしですね。
A1-105号機は赤城の第2小隊長機だそうです。
「A1-102」
真珠湾第2波制空隊中隊長機「A1-102」は進藤三郎大尉機で、写真が残ってます。
そもそも当時の日本軍は実力主義ではなく、たとえエースであっても「兵」が「隊長」はあり得ません。
特にウデが物を言う戦闘機隊。ところがラバウルの戦記を読んでいても、まだ1機も
撃墜してない将校が隊長で歴戦のエースがその列記というおかしな状況もあったようです。
まあ、この真珠湾まではそれまでの日中戦争での戦歴からそんな形だけの将校はいなかったのでしょうが・・
当時赤城戦闘機隊の中隊長は第1波の指宿大尉(A1-103)と第2波の進藤大尉(A1-102)。
TOPは第1波制空隊長の板谷茂少佐(A1-155)です。
従って木村惟夫一飛曹の乗機は少なくとも真珠湾の時は
横線なしのA1-101ですね。
ただし、半年後の6月5日のミッドウェーで活躍した木村一飛曹の搭乗機はナゾです。
ところが1970年代プラモには中隊長標識のA1-101がよく使われてます。
まだ研究も進んでなかったし、資料も少なかった時代なので仕方なかったようですが、ちょうど70年代初めは日の丸プラモが国際スケールの1/72や1/48で一段進化をはじめた時期です。
特にゼロ戦は飛躍的に進化したスケールモデルが登場。
その箱絵・デカールに中隊長標識のA1-101がよく使われました。
多分、そのはじめはフジミさんの21型
フジミ1/48 零戦21型 初版 1972
空母赤城から発艦する中隊長標識の「A1-101」
60年代キットとはまったく違った繊細なモールド。
1/48という国際的縮尺での本格的スケールモデル。
そして21型の美しいスタイルを見事に描いた箱絵。
ちょっと衝撃的なフジミの力作でした。
1972年当時は、まだ真珠湾攻撃隊の赤城戦闘機隊についての研究は進んでなかったのですが、フジミさんが自信たっぷりに発売したこの48ゼロ戦21型は、プラモ各社に影響を与えたみたいで、翌年タミヤさんも負けじと48ゼロ21を発売。
これがまたフジミを上回る内容で好評を博しました。
タミヤ 1/48 零戦21型初版 1973
高荷義之氏の絵です。
箱絵は坂井三郎搭乗機ですが、箱サイド・付属カラー図
・デカールには中隊長標識「A1-101」が付いてます。
ただし、インストには「A1-101」号機の上下に横線はなかったとの説もある、と注釈が付いてます。
付属のカラー図のA1-101号機の解説はなんと
「赤城飛行隊長板谷茂少佐搭乗機」・・
70年代は日の丸プラモがスケールモデルとして大きく進化した時期で、特にゼロ戦21型で決定版と評価されたのが
1/48ではこのフジミ・タミヤ。
そして1/72ではハセガワでした。
ハセガワ 1/72 零戦21型 初版1972
この初版は空母翔鶴飛行隊長新郷英城大尉のE1-111が描かれてます。
(実際の尾翼の横線・胴体の帯は赤フチ付きの白ですが)
しかし2版ではA1-101が描かれました。
やはり中隊長標識です。
胴体の帯が黄色になってますが、黄色は空母龍驤(りゅうじょう)です。
Squadron/signal A6M ZERO in action 1983
当時は野原茂氏の著作なんで1級の資料と思ってました。
まだ資料が少なく研究も進んでいなかったから仕方ないのですが、A1-101も含めて間違っているところが散見されます。
たとえば横線つきA1-101の図が載ってます。
しかもA1-105と共に赤城甲板上で待機する写真では、
A1-101は板谷茂少佐機と説明されてます。
70年代80年代は資料もかなり混乱してたようです。
しかし資料が発掘され研究が進むにしたがって、フジミ・
タミヤ・ハセガワ各社ともその後現在に至るまで、各スケールで新零戦21型プラモを発売していきます。
当然、箱絵・デカールの混乱は研究の進歩とともに訂正され、歴史的考証も正確なキットになっていったのであり・・・あり?
つづく