東京プラモ コンベア880
フルカラーカタログやミゼットシリーズ・ミリオンシリーズの飛行機プラモなどを発売
しまくった元気いっぱいの三和模型さん、勢い余って1963年末に倒産。
でも、翌年1964年東京プラモとして復活。
(多分、社名変えただけ?)
三和の880はコンベア社原型1号機を箱絵にしてました。
デカールはJALの桜号(JA8021)でしたが、東プラは箱も桜号にしました。
パーツ・デカールは三和のまんま。
デカールの愛称の間違い(松ではなくて桜)もそのまんま。
だいたい東プラ(三和)はデカールにはあまり関心がなかったようで、戦闘機キット
などは共通国籍マークだけだったり・・・。
まあ、旅客機シリーズは東プラにしては豪華なデカールでしょうか。
日本航空が国内線初の「じぇつと機」として880を導入したのは、1961年。
880は秒速880フィート(時速966km)を意味するそうで、当時「世界最速」
という触れ込みでデビュー。
香港あたりは、今なら明日にでも気軽に行けますが、当時は夢の海外旅行・・・
もう50年も経っちゃったんですなあ。
日は昇る状態の日本でしたから、日本航空としても、コンベア社の「世界最速」に
惹かれたのでしょうか。
合計9機も買い込み、DC6BやDC7Cにもアローをつけて大々的に宣伝。
けっこう小さいんですね。中距離向けでしたが、DC8や727のように、胴体をストレッチして旅客増大に対処することができなかったし、気むずかしいエンジンと騒音、
まっくろな排気ガス・・・
操縦も気むずかしいところがあったようで・・・
カエデさんは、壱岐空港でタッチアンドゴーの訓練中に墜落。
大破炎上全損抹消
やっぱ後退角35度の主翼は離着陸がちょっと・・・
日本国内航空の銀座号(JA8030)もJALに移籍して、JAL塗装に塗り直される間もなく、羽田で訓練中に墜落(1966)。
JA8028桔梗号も訓練中に墜落(1969)。
結局、67機の生産で終了。JAL全機も1971年までに退役。
しかし、エアライナーに執念を燃やすコンベア社は、880を大型化・長距離・
高速化した(?)990を開発。
主翼のエンジン後方、燃料タンクを兼ねた抵抗減少用スピードポットが特徴です。
でも、たいした効果はなかったようで・・・なんせ当時のエアライン業界には727や
DC8の長胴型、DC9、そして747など新鋭高性能ジェット機が目白押し・・・・
結局、コンベア最後の旅客機でした。
ま、しかし、日本の空のジェット時代の扉を開いた記念すべき・・・
60年代じぇつと。