先日、赤坂~加納間の中山道を歩いてみました。

 

 

 東海道本線の大垣駅で乗り換え、

 

 

美濃赤坂駅で下車。

 

 

 開業当時のものとされる木造平屋建ての駅舎を抜け、

 

 

矢橋家住宅と

 

 

赤壁の長屋門である、

 

 

竹中邸裏門の間を通って、

 

 

まずは、中山道へ。

 

 

 赤坂宿は、鎌倉街道(中世の東海道)以来の古い宿駅。


 例えば、飛鳥井雅有の「春の深山路」*を見ると、弘安三年(1280)十一月十六日に、

 

 赤坂の宿、いつの旅にか、二度泊りたりしぞかしと思へば、何となく知らぬ里には似ずぞあるかし

 

 彼はいつの旅か、二度泊まっていて、知らない里ではなかった。

 

 時代を下がって、足利義教に随行した堯孝の紀行文「覧富士記」*では、永享四年九月十二日、

 

 赤坂の宿にて、

  折に逢ふ秋の梢の赤坂に袖振りはへて急ぐ旅人

 

 また、同じく随行した飛鳥井雅有の「富士紀行」**にも、

 

赤坂と申すところにて、いまだ夜も明け侍らず、伴ひたる人々も、跡に遅れ侍るを。しばし待ち侍りしほどに、

  

ゆきつれぬ友さへあとにのこる夜をしばしやこゝにあかさかの里

 

と記されています。

 

 

 さて、谷汲街道・養老街道の分岐点であった四ツ辻から

 

 

旧中山道を東に進んでいくと、

 

 

赤坂湊跡に出ました。

 

 

 赤坂は宿場町であるとともに、河港としても栄えたところ。

 

 杭瀬川は揖斐川の旧河道であり、秋里籬島『木曽路名所圖會』***(文化二年)巻二に、

 

 杭瀬川 赤坂宿の東にあり。呂久川へ流れ入る。下流に杭瀬川村あり

 

と書かれるように、赤坂宿の東を流れていました。

 

 

 上画像左は赤坂港会館。

 

 旧岐阜県警察第2区大垣出張所の第5分区屯所を復元したもので、明治初期の擬洋風建築。

 

 

 この日は閉館だったのですが、以前訪れた折には、赤坂港や赤坂宿の資料、赤坂金生山の化石 などが展示されていました。

 

 

 なお、1936年5~8月の各月3日間の調査によれば、発船地・仕向地ともに桑名が最多だったようです****。 

 

 さて、十返舎一九『木曾街道續膝栗毛』三篇(文化九年)*****に、

 

  するほどの事に杭瀬川ろくの渡しのろくでない旅

 やがてこの渡しをむかうへ越ゆると

 

 かつては舟渡しだったようですが、現在は国道417号赤坂大橋。

 

 杭瀬川を渡り、私もろくでない旅を続けることにしました。 

 

*『新編日本古典文学全集48 中世日記紀行集』(小学館、1994年)

 

**『續紀行文集』(博文館、1909年)

 

***大日本名所圖會刊行會(1919年)

 

****海野一隆「西濃水運の地域的構造」、『人文地理』2巻4号(1950年) 

 

*****『近代日本國民文學大系』第18巻(國民圖書、1926年)