(前回「美濃路:起宿から萩原宿へ」より続く)

 

 

 日光川を渡り、萩原宿に入ります。

 

 『張州府志』(1752年序)巻十九中島郡の「津梁」に、

 

 萩原橋 在萩原村乃當京師道路也其長二十二間

 

 『尾張志』(1844年序)の「八 中島郡」の「川橋」にも、

 

 萩原橋 萩はら村の西にあり美濃路往還の板橋二十二間あり

 

と書かれているので、かつての「萩原橋」は二十二間の板橋。 

 

 現代においても、このあたりは交通の要所で、上画像で奥(北)に見えているのは、名神高速道路。

 南には東海道新幹線がやはり高架で抜けています。

 

 

 萩原は、『尾張名所圖會』後篇巻二中島郡に、

 

 萩原驛 美濃街道の宿驛東の方稲葉驛より西の方起宿への馬繼なり

 

 『尾張志』八中島郡の「宿驛」にも、

 

 萩原驛 稲葉より一里餘の馬繼にて町屋立つゞけり

 

と書かれているように、美濃路の宿駅でした。 

 

 続けて、萩原町教育会『萩原宿誌』(1930年)を見ると、

 

 本陣は帯刀苗字御免の森権左衛門で、以後累代世襲して明治維新に及んだ。

 

 

 上画像は、「美濃路萩原宿本陣跡」の標石。 

 

 例えば、福井藩主松平春嶽の「東海紀行」(1844年)*をみると、

 

 駕にて萩原宿に到る、本陣森条右衛門也、こゝを昼休とす

 

と書かれているので、参勤交代の折、彼もここで昼休みをとったということになります。 

 

 

 続けての画像は「美濃路萩原宿問屋場跡」。

 

 やはり『萩原町誌』(1930年)によれば、

 

問屋場は上が鵜飼久蔵、下が木全庄九郎で、何れも維新前まで代々相傳へ、問屋場には常備として人足二十五人馬二十五頭あり、尚串作にも問屋場あり、人馬絡繹として、交通甚だ盛であった。

 

で、こちら上の問屋場。

 交通盛んな宿駅だったようです。

 

 

 次に、林鵞峰玉露叢』巻第九で、「家光公御上洛記」(寛永十一甲戌年)を見ると、

 

六日名古屋を出御有りて、萩原の宿を過ぎさせ給ふとて、

 折にあひて所を聞けば萩原の秋のはじめの旅のゆくすゑ

 

 1634年の上洛の折、三代将軍家光も萩原宿を通過しています。

 

 

 さて、古い町家が残る、

 

 

萩原の町を抜け、現代の萩原駅へ。

 

 

 駅前に立つ一宮市観光協会の案内板を見ると、

 

 

 上問屋場跡まで約900mで徒歩12分、富田一里塚跡まで約2.8km約35分、林家住宅まで約4.4km約60分、起渡船場跡まで約5.1km約70分の道のりです。

 

 

 この日は名鉄尾西線でいったん津島駅に出て、帰途に就きました。

 

*福井県立文書館研究紀要14(2017.3)