かなり悲惨な母子の運命
「私説桶狭間」25回目です。こちらです 。 場面変わって今川家です。小説でも書いている通り、永禄2年3月6日に松平元康、後の徳川家康の長男信康が誕生しました。この小説の主題である桶狭間の戦いとは直接関係しないので書きますが、この人物、母と共に不幸な死を迎えることになります。生まれた早々、なんですが。桶狭間をきっかけに元康は独立。三河岡崎で松平家当主となりますが、依然妻と息子は駿府で人質に近い身。そこで元康は永禄5年に三河上ノ郷(かみのごう)城を攻めた時、城主鵜殿長照(戦死)の息子氏長・氏次を捕虜とし、人質交換します。同年元康は織田信長と清須同盟を結びます。今川家との完全な決別でもありました。永禄10年、信長の娘徳姫と結婚。共に9歳(当時の数え年)でした。そして、ここからは通説です。当時の徳川家には嫁姑問題がありました。ことに母築山殿(瀬名)は今川義元の姪。嫁の徳姫は伯父を殺した男の娘ということになります。いくら戦国時代とはいえ、忸怩たる思いがあったのは想像に難くないですね。しかも夫を含めた周囲は自分よりも嫁の方を大切にしている。ある意味当たり前のことですが、元々お嬢様だった築山殿には耐えがたいことでした。当然嫁への風当たりが強くなります。徳姫は父である信長に手紙を書きました。いわゆる姑への愚痴です。しかし信長には見逃せないことが書かれていました。姑の築山殿と夫信康が武田に内通しているという文があったのです。信長が徳川家臣の酒井忠次に問いただすと、忠次は全て認めてしまったそうです。結果築山殿は護送中に殺害。信康も切腹しました。享年21歳。歴史というのは、為政者に都合のいいように作られているところがあります。歴史は勝者のためのもの、というのは事実と考えていいと思います。この場合信康と築山殿が亡くなったのは事実ですが、家康が悪人に描かれるということは、公的であればあるほど、ありません。自然築山殿に悪人のお鉢が回ってきたともいえそうです。ただ、関ヶ原のとき、息子秀忠が戦いに遅れたことで、「信康が生きていたら」と嘆息したという話や、酒井忠次が自分の息子の待遇が悪いということを家康に訴えたとき、「お前もわが子はかわいいのか」と皮肉を言ったという話が残っています。これは事実であるような気がしますね。さて、これで「永禄2年春」は終わり。次からは夏の章となります。まだまだ長い道のりですが、お付き合いの程よろしくお願いします。