粗挽き解説「川越夜戦」
「私説桶狭間」42回目です。こちらです。 川越夜戦(カワゴエヨイクサ/カワゴエヤセン)と呼ばれる戦いは、日本3大奇襲戦の1つに数えられています。後の2つは桶狭間の戦いと厳島合戦です。3つの中では一番マイナーな戦いかもしれません。私自身よくは分かっていなかったので、確認の意味も込めて、簡単にまとめてみたいと思います。川越城(埼玉県川越市)は元々関東管領である上杉氏の城でしたが、権力のある家のお決まりパターンで、本家筋の山内上杉氏と庶家の扇谷上杉氏は長く対立を続けていました。そんな中、戦国最初の武将と呼ばれる北条早雲が台頭し、現在の神奈川県にあたる相模を平定。小田原城を奪い取ります。2代目氏綱は東京・埼玉の武蔵にまで侵攻。扇谷上杉氏の当主朝定の居城である川越城を手に入れます。そして天文10年(1541)、氏綱が病死すると、嫡男氏康が3代当主となります。当時の年齢(数え年)で27歳でした。これはチャンス、というか、やっと共通の危機感ができたというべきか、両上杉の反撃が始まります。関東管領の上杉憲政(山内上杉)が今川義元と結びつき、義元は東駿河の北条領に侵攻します。氏康が出陣すると、その隙を狙って上杉憲政・朝定、そして古河公方と呼ばれる足利将軍家の関東支社長で、北条氏にその地位を脅かされている足利晴氏も連盟し、それぞれ兵を出して川越城を囲みました。その数、約80,000と伝えられています。対して川越城を守る北条綱茂の兵は3,000です。絶体絶命。でも北条氏康は即行動します。まず甲斐の武田信玄(当時は晴信)を仲介役とし、不利な条件を受け入れて和睦。すぐ川越城に救援に向かいます。でも兵力はたったの8,000人でした。一方上杉足利の連合軍。川越城を包囲したはいいけど、これといった動きはありません。連合といっても急造の軍だし、元々喧嘩していた者同士の集まりです。スムーズに動くはずがありません。時間だけが過ぎるため、次第に厭戦気分が広がっていたようです。氏康、まずは降伏しますという詫び状を出し続けます。しかし、圧倒的多数の兵数を持つ連合軍は鼻にも掛けません。逆に救援に来た氏康の軍に攻撃を仕掛けます。氏康軍はこのときろくに反撃もせず、現在の東京都府中市あたりまで退却します。「氏康軍はぜんぜんダメじゃん」と楽勝気分が蔓延する連合軍。でもどうやらこれ、氏康の作戦だったのです。天文15年(1545)4月20日の深夜、氏康軍は“深く静かに”軍を進めます。兵たちは氏康の指示で鎧兜を脱いだ軽装で、子の刻(午前12時ごろ)連合軍陣地へ突撃しました。多分半月が東の空に上がろうとしている時分で、まだ月明かりがなく真っ暗だったのではないかと思われます。突然現れた氏康軍に連合軍は大混乱。喧騒の中で扇谷上杉の朝定が討死し、足利晴氏も古河に敗走。上杉憲政は命からがら脱出し、上州の平井城(群馬県藤岡市)まで逃れます。その後、平井城も氏康に滅ぼされ、憲政は越後の長尾景虎(後の上杉謙信)の元へ逃れます。そして、永禄2年のこの時点で景虎は上洛し、上杉の家督と関東管領職を得るための下準備をするということになります。つながっているんですね。この事例、ほぼ10倍に近い兵力差がある中、なぜ北条氏康が勝利し、上杉足利連合軍が壊滅的な敗北を喫したのか、その理由がよく分かると思います。これに比べて桶狭間は謎が多い。今川義元は連合軍のトップほど愚将ではなかったと思いますし、たとえそうでも軍がそれほどバラバラではなかったはず。でも結果は同じように惨敗だったわけです。やっぱりこの戦でいう所の詫び状や夜襲という“何か”があったように思います。