「桶狭間」16回目です。こちらです。


今川義元さんがやっと登場したなと思ったらすぐに場面が変わります。

山口教継・教吉の登場で、ああ多分あれねと思ったあなた、その通りです。

そのことについてはまた後程。


今回は山口父子と岡部元信、三浦義就が酒を酌み交わしている鳴海城について。

一度行ったことがあります。名鉄名古屋駅から約20分、鳴海駅を降りると東側に見える小高い山というか丘というか、微妙な高さの台地があり、そのてっぺんあたりが鳴海城跡でした。


駅の北側にある道路に入り、天白川を渡って坂を上がると、そろそろ頂上かなというところに天神社があります。ここが鳴海城の東側。そこから左に曲がると児童公園があります。名前は城跡公園、鳴海城の西側あたりということです。


公園の中央はコンクリートで出来た富士山に模した小山があり、勢いをつけて走らないと頂上に登れないほどです。ちょっと恥ずかしかったけど頂上に上り、周囲を見渡しました。

永禄の当時、ここから見える西側は天白川が海のようになっており、現在の駅は川の中だったのでしょう。そして対岸は星崎などの地。当時の山口父子などにとっては味方の詰めている地であり、織田家との衝突の最前線となる警戒地域でもあったのでしょう。


目を転じて東側、ここは当時鳴海城が管理する今川家の領地でした。

ひとつの証明として、元々この地にあり、城を作るため近くに移転した成海神社に、今川義元からの社領安堵状が残っていること。

これ、意外と重要だと思います。

だからこそ信長は鳴海城の周囲に丹下砦、善照寺砦という付城を築いたのであり、桶狭間での戦いの要因となったと思えるのです。

平たくいうと現在の名古屋市緑区は今川領で、南区が最前線でした。


武田家の軍学書「甲陽軍鑑」の中で桶狭間の戦いを、今川の兵が乱取している隙をついた進撃による勝利、と書かれていますが、以上の点からこれは信用し難い。

乱取を広辞苑で引くと、敵地に乱入して物品を略奪すること、とあります。つまり敵地なら有り得る行為で、自分の領地だったらまず起こさない。

領主にすれば田畑を荒らし人家を襲えばその地の年貢が期待できません。

領民は年貢などで領主の力による日々の安全を得ていたといえます。もしそのようなことがあれば、領主への不信から逃散や一揆などが起こる恐れもあります。


さて、物語は信長の父信秀の死による山口父子の裏切りから、信長の家督継承後初の戦いとなる「赤塚の戦い」につながります。