今回はあまり一般的には馴染みのないお店かもしれませんが、とても素敵なお店をご紹介します。


それが『銀座コイン』さんです。


銀座コインさんは、銀座の地に50年間も営業されており、貨幣コレクターの幸せと満足を追求するお店だそうです。


先日、友人に紹介されて行ってきました。


場所は、銀座駅や有楽町駅からほど近く、銀座ファイブという建物の一階にあります。



ちなみに、”銀座”という地名の由来ですが、


その昔、金を使ってお金を作っていた所が金座、銀を使ってお金を作っていたところが銀座、銅を作ってお金を作っていたところを銅座と言いました。


つまり、今の銀座は昔は銀で貨幣を作っていたところなワケですね。


仕事の取材のためにお店に伺ったのですが、一銭も払っていないにも関わらず1時間くらい丁寧に貨幣の説明をして下さったり、貨幣や紙幣の現物を見せて頂きました。


店員さんの竹内さんは、イチロー似のとてもイケメンでした。


また、資料のコピーも快く無料でして下さり、本当に助かりました。


銀座コインさんありがとうございます。


店内を眺めるだけでも、とても楽しいので銀座にお越しの際は是非寄ってみてください。

以下、写真です。

店頭の様子
今は昔、ある所にこんな人がいました-店前

ショーケースを除くと、お金の歴史が学べます
今は昔、ある所にこんな人がいました-ショーケース

右の大量の貨幣と、左の一枚の金貨は両方とも一両の価値だったそうです。

こんな重たいものを持ち歩いていれません。

そりゃ、両替が商売になりますよね。
今は昔、ある所にこんな人がいました-一両の両替

そんな両替商が店構えにしていた看板
今は昔、ある所にこんな人がいました-看板

明治政府が発行した、13年限の太政官札
今は昔、ある所にこんな人がいました-太政官札
当時、この紙幣の価値の変動が激しく、明治政府は財政の安定が大変だったそうです。


他にも、たくさんお話を聞いたのですが、このくらいで。

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弁当男子ここに参上

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今日は最近の私の趣味についてご紹介します。


平日、山梨の家に住むようになって、100%自炊の生活をしているのですが、


ついに最近になって、弁当を作るようになりました!!


周囲で、一人暮らしの男性が弁当を作ってるのを見かける人は少ないのではないでしょうか?


さて、なぜこのような経緯になったかと言うと、理由は以下の通り


①節約のため

②健康のため

③車社会なのに不所持のため、夜に出歩く事が出来ず時間がある

④料理が趣味


などなど。


今週の火曜日には、気合を入れてやっていこうという事で、一人暮らしにはちょっと金額が多いですが

6000円分くらいの食材の購入をしてしまいました。


しかも、お米を炊いてラップでくるみ冷凍、お肉もパックから一回分ずつに小分けしてラップ&冷凍


結構マメにやっています。これで、たぶん3週間くらいは何も買わずに生活出来ると思います。


では、いつも通り写真をどうぞ。


今は昔、ある所にこんな人がいました

どうでしょう。


まだ、お弁当箱を買っていないため、タッパーに詰めるしかないのが、非常に悲しいのですが、まあまあ頑張って作ってませんか?(自画自賛)


さて、もう一枚です。


今は昔、ある所にこんな人がいました-0420お弁当

海苔を乗っけてみました。


とりあえず、きれいに作ったのは、まだ2回だけなんですが、今後も頑張って作っていこうと思います!!

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今回は、最近常連として通っている、おススメのお店をご紹介します。


一人でも友人と一緒にも食事に行きましたし、今働いている職場の上司とその奥様と3人でも行ってきました。

こちらです。

『創作家庭料理 御燗(おかん)』

東京都千代田区一ツ橋2-6-2 日本教育会館 B1F


御燗というだけあって、居酒屋です。

このお店と私との出会いを知っている方は、ちょっとニヤリとするかもしれませんが、ここでは敢えてそれは語りません(笑)


まあ、本当に不思議で偶然か必然かわからないようなご縁で、ここに引っ張られるように来ました。



ちょっと横道に逸れますが、最近たくさんの有り得ないようなご縁がたくさん広がりすぎて、とても恵まれています。


これも、お釈迦様のお導きなのでしょうか・・・。


話を戻しますが、お店の紹介です。


まずは、お店の入り口の写真


今は昔、ある所にこんな人がいました-御燗入口

秋田犬が出迎えてくれます(笑)
今は昔、ある所にこんな人がいました-玄関の犬


おいしいきりたんぽ鍋もあります。
今は昔、ある所にこんな人がいました-きりたんぽ鍋

内装は、こんな感じ。まさに秋田料理屋さん!!


なまはげ
今は昔、ある所にこんな人がいました-店内

これは、おかみさんのご出身の羽後町という町の名物の踊りをプリントした暖簾だそうです。


『西馬音内盆踊り』といいます。


今は昔、ある所にこんな人がいました-のれん


おなじみのなまはげ


今は昔、ある所にこんな人がいました


それほど大きな店内ではないのですが(最大でも20人から25人くらいでしょうか)所狭しと秋田の名物があります。


そして、料理がまた美味しい!!


私は今まで秋田に縁はなかったのですが、秋田料理屋や秋田の郷土の話を聞くうちに、すっかりファンになってしまいました。


では、料理の写真をどうぞ


あ、ちなみに、かなりたくさん料理の写真を載せますが、一回の食事でこんなに食べたわけではないです。


何回も通って撮りためたものですので、勘違いなさらないように(笑)


しかも、食べるのに集中しすぎて、取り忘れたものも多い・・・


ということで、まずはお店の名物のおでん


今は昔、ある所にこんな人がいました-おでん


そして、生姜焼き


今は昔、ある所にこんな人がいました-生姜焼き


そして、この〆鯖定食!!


〆鯖は好きでよく注文するんですが、今まで食べた中で一番おいしかったかもしれません。



オーナーの十八番料理だそうです。


そして、ここからは秋田料理の登場です。


まずは、いぶりがっこ(たくあんのスモークのようなものですかね)


今は昔、ある所にこんな人がいました-いぶりがっこ

この写真には載ってませんが、マヨネーズを付けて食べたらとても美味しかったです。まろやかでした。


そして、はたはたの煮つけ


今は昔、ある所にこんな人がいました-はたはたの煮つけ

さっぱりとしていて、ちょうど良い塩味が最高です。


そして、やっぱりこれがないとという事で、きりたんぽ鍋です。


ます、鍋にいれる前のきりたんぽ


今は昔、ある所にこんな人がいました-きりたんぽ取り分け前

こんな感じでした。


そして、きりたんぽを入れる前の鍋の写真


今は昔、ある所にこんな人がいました-鍋の中身

ちょっと見えづらいかもしれませんが、きりたんぽ鍋には”せり”が入ってます。(もちろんこの鍋にも)


この”せり”なんですが、根っこが入ってるんですが、根っこまで食べられるってご存知でしたか?


しかし、せりは湿地や水耕田の中に生えるため、根っこに絡みついた泥を落とすのは至難のワザだそうです。


なので、同席した秋田出身の上司の奥様が、仕入れや仕込が大変だろうなぁとおっしゃっていました。


そして、きりたんぽを入れて煮込んで取り分けると・・・


今は昔、ある所にこんな人がいました-きりたんぽ取り分け後

このようになります。きりたんぽ鍋は初めて食べたのですが、びっくりするくらいおいしかったです。


そして、最後に秋田名物の日本酒です。


まずは天寿


今は昔、ある所にこんな人がいました-天寿

そして、まんさくの花です。


今は昔、ある所にこんな人がいました-まんさくの花


実は、私はこの年になるまで、日本酒は好んで飲まなかったんですが、


このお店で日本酒を飲ませて頂いてから、飲めるようになりました。


他にもたくさんご紹介したかったのですが、冒頭にも書いた通り、何しろ夢中になってしまい写真を撮り忘れてしまったので、非常に後悔しています。



このブログの読者の方々や、私の友人などは、このお店がある神保町付近によく出没する(笑)と思いますので、


是非、足をお運びください。


平日の17:00~22:00にお店は開いているそうです。


以上、ご紹介でした。





今は昔、ある所にこんな人がいました-〆鯖定食



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『二宮忠八』を思う

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この記事は、2か月ほど前に書き始めて、時間を見つけては少しずつ書き足していたものです。


こんなに長い間書き続けた記事は初めてです。やっとお披露目出来た事を嬉しく思います。


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最近、スゴイ日本人がいたものだと勉強をしましたので、ここにまとめてご紹介しようと思います。


きっかけは、いつも通り、私が参加する勉強会です。


名前は『二宮忠八』さん。恥ずかしながら、私を含め勉強会に参加していたメンバーは誰も知りませんでした。


どんな人物かというと、ライト兄弟よりも12年も前に、飛行機を飛ばした人物です。


そもそも『飛行機』という名前を名づけたのが、この二宮忠八ですし。



ライト兄弟は世界初の有人飛行(1903年)を成功させた人物なのですが、二宮忠八はプロペラ飛行機の飛行実験を成功(1891年)させたという違いはあります。


しかしながら、この二宮の実験が人類初の動力飛行実験の成功である事は、疑いのない事実です。



この、スゴイ人物がなぜ日本の歴史で語り継がれないのかという話をしたいのですが、してしまうと長くなってしまいますし、話が飛んでもない方向に行ってしまいそうな気がするので今回はやめておきます。


今回は、あくまで二宮忠八の紹介をしていきます。


では、以下に二宮忠八さんの生涯をどうぞ

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二宮忠八は、慶応2年6月9日(1866年7月20日)生。伊予国宇和郡八幡浜浦矢野町(現在の愛媛県八幡浜市矢野町)出身。


父は幸蔵、母はきた。


当時としてはかなり裕福な家に生まれて、無類の凧好きだったそうです。


しかし、まもなく父の事業に失敗し、また2人の兄が遊女に狂って放蕩。さらに父幸蔵が忠八12歳の時に若くして亡くなってしまいます。


忠八は生計を得るため、町の雑貨店や印刷所の文選工、薬屋などで働くかたわら、物理学や化学の書物を夜遅くまで読み耽けっていおり、また収入の足しに学資を得るために自ら考案した凧を作って売り、「忠八凧」と呼ばれて人気を博したといいます


明治20年(1887年)に21歳の忠八は徴兵され、香川県の丸亀歩兵第12連隊第1大隊に入隊します。


2年後の11月、野外演習の休憩で昼食を取っているときに滑空しているカラスが残飯の米粒を求めてやってきた所に遭遇します。


そこで忠八は気付きます。カラスは翼を広げて羽ばたかずに滑るように舞い降り、飛び立つときには何度か大きく羽をあおると、谷底からの上昇気流で舞い上がります。つまり、翼で向かい風を受けとめることができれば、空を固定翼で飛べるのではないかという事です。


それを基に忠八は1年後に、「カラス型飛行器」を作成します。


主翼は単葉で上反角を持ち、翼幅は45cm。全長は35cm。

機尾に水平尾翼、機首に垂直安定板があり、三輪を備えていて。推進力はゴムひも、推進式4枚羽プロペラです。


ちなみに、陸軍病院の精神科に勤務であった忠八は聴診器のゴム管を流用したそうです。


そして、明治24年(1891年)4月29日、3mの自力滑走の後、離陸して10mを飛行させて、日本初のプロペラ飛行実験を成功させます。


そして翌日には何度も何度も飛行機を飛ばして、手投げ発進の後、約36mの飛行を成功させました。



勢いに乗った忠八は、飛ぶものならば、ありとあらゆるもの(鳥や昆虫、トビウオから天女、天狗)を研究し、「カラス型」の限界を悟ります。


そして、2年後の明治26年(1893年 )10月には、昆虫の体を参考にして、有人飛行を前提にした飛行機「玉虫型飛行器」の縮小模型(翼幅2m)を作成します。


空中では飛行機の向きを上下左右に自在に操れる工夫がしてあり、実機が飛行すれば世界初の友人実用機となるはずです。


しかし、それだけの大きさの飛行機を飛ばせるための動力源は確保できませんでした。


ゴムひもだけで飛ばせる最大サイズで作成して10mの飛行は成功したのですが、動力源がどうしてもない。


電気も通っていない明治中期のことですから、当時の最新鋭であるガソリンエンジンなんて、とても高価で庶民が個人で買う事は出来ません。


石炭を焚く蒸気機関では重すぎて実用的ではなく、忠八は手詰ってしまします。



そこで忠八は、『個人がだめなら軍でこの研究を採用してくれないか、飛行機は必ず戦場で有効だ』と考え、


有人の「玉虫型飛行器」の開発を上司である参謀の長岡外史大佐と大島義昌旅団長に上申します。


しかしながら、長岡は「戦時中である」という理由で却下。


また大島には戦地の病気で帰国し、戦争が終わった頃に尋ねてみたところ、「本当に空を飛んだら聞いてもよい」という返答が帰ってきた。


つまり、全く乗り気にはなってもらえませんでした。


(ちなみに、この玉虫型飛行機は、重量が重すぎて完成しても飛べないだろうと言われてきましたが、平成3年10月に有志によって忠八の当時の設計図通りに実機が作られて、見事空を舞いました。)

軍に取り合ってもらえなかった忠八は軍を退役 し、まずは飛行機製作の資金を作ってから独力で研究することにするのです。



忠八は大日本製薬に入社して必死に働きます。


頑張ればその分給金が上がる制度の中、みるみる成績を上げて、明治39年には愛媛の支社長にまで出世します。


そこで少し時間にもお金にも余裕が生まれた忠八は、明治40年に念願だった精米機のための2馬力のガソリンエンジンを購入します。

もちろん2馬力では人を乗せて飛ばすだけの推力は生まれません。そこでまた考えます。


当時、高価で手が届かなかったオートバイ用のガソリンエンジンですが、その部品を少しずつ買い集めてエンジンそのものを自作しようと考えます。


この自作しようとしたエンジンの馬力は12馬力でしたが、ライバルのライト兄弟(当時、忠八はその存在を知りませんが)が有人初飛行を成功させた「フライヤー1号」も12馬力でした。



少し話しは逸れますが、実はライト兄弟は明治36年(1903年)の時点では有人飛行の成功は世に知られていませんでした。


ライト兄弟がアイデアの盗用を恐れた事と、地上すれすれにしか飛ばなかったため、少し大型の凧上げくらいにしか認識されなかった殻です。


なので、ライト兄弟が広く世間に広まったのは、明治40年以降のことで、日本に報じられたのは雑誌『科学世界』の明治40年11月号でした。


忠八もこの雑誌によって、ライト兄弟の成功を知ったと言われていますが、これに大ショックを受けて飛行機自作のための機材をめちゃくちゃにしたと言います。



そして、このショックから飛行機の開発を辞めてしまいました。


忠八は以後は実業家としての道を歩みます。



それから10年後のある日、たまたま同じ愛媛出身の白川義則陸軍中将と出会います。


ふとしたはずみで、若き日の飛行機話で盛り上がったのですが、忠八の言葉に関心を持った白河中将は実際に忠八の上申内容が技術的に正しいかどうかを専門家に確認させます。


すると、なんとライト兄弟よりもはるかに前に、動力飛行機による飛行実験を成功背せていたという事実がこの時に発覚し、世間の明るみに出ることになるのです。


この時、忠八の実験から12年の月日が経っていました。


白川中将は政府に働きかけ、大正11年に忠八は表彰され、他にも多数の表彰を受けたのち、昭和12年度からは国定教科書に掲載されるようになりました。


ちなみに、この事を知った長岡大佐はかつて忠八の上申を却下したにも関わらず、わざわざ忠八の元を訪れて謝罪したと言います。自らの意思で過去の不明を恥じて頭を下げられる立派な振る舞いだと言われました。



その後、飛行機は世界にあっと言う間に広まります。しかし、初期の飛行機は事故も多くて多くのパイロットが命を失いました。


忠八は、自らの青春の夢をかけた飛行機で、そのように多くの人命が失われた事に深い悲しみを覚えて、


大事にとっておいた、飛行機を作るための貯金や懸賞でもらったお金を使い、なんと京都の八幡市に「飛行神社」を建立します。


飛行機事故の防止と犠牲者の冥福をう乗るための決断でした。


そして、そこで自らが勉強をして神主になり、生涯、航空の安全と航空殉難者の慰霊を捧げ続けました。


人類が未来永劫、飛行機による殉難者を抱えることになるのですが、その慰霊を自らが名乗り出た日本人『二宮忠八』に尊敬の念を抱かずにはいられません。