生と死は補色のような関係 | 恋月 ぴの 「うたごよみ」

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 今夕の日経夕刊プロムナードは作家坂東眞砂子さんの「生と死の実感」です。

 タヒチ在住の坂東さん、ドライブの度に様々な動物の轢死体を見かけるそうです。で、十数年の都会生活で身に付けてしまった死体への嫌悪感が薄れてきたそうです。

 「都市とは、死を排除された空間だ。殺人、事故死などはごまんとあるのに、それらの痕跡は見事に消される。葬式における人の死骸も、生きているように演出される。花に埋もれ、死化粧を施された遺体を、棺の小窓からちらりと見るだけだ。」
 
 坂東さんのおっしゃるように、死は都市生活より遠ざけられているというか忌み嫌われているようです。たとえば、鮮魚は切り身の状態で「製品」として売られていますし、斎場が出来るという噂が立ち昇るや否や猛反対の嵐となります。

 「死の実感の喪失は、自分の命は永遠であるという幻想をもたらす。その幻想のなかで、人は死に対する激しい恐怖に捕われる。」

 普段生活していると確かに加齢しているのですが、健康であればそれさえも忘れがちになって、何かのときに自分の歳を思い知らされて愕然としています。そして、ゲームの「死」はあくまでも「リセット」に過ぎなくて、何度でもやり直しが効くように実生活でもそんな感覚に捕われてしまいます。

 「人はいつか死んでいく、ということは、誰もがよく知っている。しかし、そんな知識は死の恐怖を消すには役立たない。死を見て、肌で感じ、腐臭を嗅ぎ、実感し、骸が自然の中で溶解していくのを見届ける連続の上ではじめて死の実感は、安らぎとともに得られるのではないか。」

 死の実感を確かにする。それは死と直面する、死とは何かを体感しなければ得られるものでは無いようです。そして、確かなものとするにつれ死は恐怖では無くなるのでしょうか。

 「死の実感は生の実感に通じている。生と死は、お互いの色を際立たせる補色のような関係だ。」

 生きがいは見つからない。生きている実感を掴みにくい、それは坂東さんのおっしゃられている「補足の関係」、対極にある死の実感を当然のものとして受け入れていないからなのでしょうか


参考、引用: 平成18年7月7日付
       日本経済新聞夕刊

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